ヘッセルマンエンジン―陸軍三式潜航輸送艇と木製大護衛艇(その2)

 さて、「陸軍潜水艦」(土井全二郎,2010年光人社NF文庫)にヘッセルマンを積んだら海軍技術陣に褒められた、的な記述がある。しかし、これは当時の日本の置かれた状況を鑑みて、やむを得なければ即ち仕方がない、といったところで、やはりこれを積んだフネ作るのはダメな方向ではないかと思う。

 先の木製大護衛艇には、350馬力ディーゼル2基搭載の甲と、160馬力ヘッセルマン2基搭載の乙がある。機関重量の計は甲3.7tに対して乙5.4tと重く、最大出力時の回転数は900rpmと1,000rpmで概ね同等。ヘッセルマンの馬力当たり重量が軽い、というのはどうやら「陸軍兵器総覧」(日本兵器工業会編,1977年図書出版)に記述されている谷口少佐の言が出典であろうと思われるが、何と比べてのものだろうか。

 確かにヘッセルマンエンジンの特徴の一つとして、ディーゼルほど高圧縮比ではないので強度が必要なく、軽く作れるといえばそのとおりである。
 また低速ディーゼルは重いのも事実で、海軍の駆潜特務艇に搭載された中型400馬力ディーゼルは本体だけで9.5tあるが、こちらの最大出力時の回転数は500rpmで発生トルクが倍以上違う。付け加えるなら、木製大護衛艇は当初戦標船2EのF5ディーゼル550馬力の計画だったが、これは29t近くあって重過ぎるとして後に取り止めている。

 燃料消費率を見ても350馬力ディーゼルが190g/馬力/時、ヘッセルマンが240g/馬力/時と効率も劣る。もっとも、こちらは気筒の大きさの違いもあるだろうが。

基本計画(1)
基本計画(1)(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020287200より)

 この木製大護衛艇の基本計画を見るに、「2」の350馬力ディーゼルはまるゆ2型の主機に2基2軸として採用予定のものと同じものらしい。まるゆ1型の2基タンデム1軸に比べて堅実な設計で、やはりヘッセルマンは使いたくて使ったものではないのだろう。

 なお木製大護衛艇であるが、当初15ノットを発揮するために「1」のF5ディーゼルをこの第一次計画で選定したものの、先のとおり不経済であるとしてこの後の二次計画でまるゆ用として研究中の「4」の500馬力ディーゼル1基とし、最終計画で主機が「4」のディーゼルと「5」のヘッセルマンの二本立てとなり、最後に「4」のディーゼルはどうやら都合がつかずに「2」の350馬力2基となったらしい。

 ついでにこの「2」の350馬力ディーゼルは、元をたどると陸軍の装甲艇(AB艇,文中一見『AD艇』だがよく見るとABと書いてある)に搭載されたもので、新潟鐵工所では機関形式T6YA/T6YB(シリンダ径235mm×行程270mm)として生産されている。これに過給器をつけて525馬力としたT6YBSが存在し、これが「3」かあるいは「4」の500馬力ディーゼルを指すのかもしれない。

5式木製大護衛艇(甲)取扱法(案)/附表
5式木製大護衛艇(甲)取扱法(案)/附表(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020288600より)

ヘッセルマンエンジン―陸軍三式潜航輸送艇と木製大護衛艇(その1)

 かつて、ヘッセルマンエンジンという内燃機関が用いられていた時代があった。スウェーデンのヨナス・ヘッセルマンの発明によるもので、1930年代に自動車用のほか、油田掘削用の動力としても用いられた。三式潜航輸送艇こと「まるゆ」の主機関としても、一部方面で有名であるかもしれない。
 ヘッセルマンエンジンは、ガソリン機関とディーゼル機関を足して二で割ったような性格の機関で、利点としては低質油やガスを燃料とできること、欠点としては点火装置と噴射装置の両者が必要なことが挙げられる。

 まるゆの方面から調べていくと、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13120848500、軍管区別兵器 製造設備能力分布状況表 昭和20.5(防衛省防衛研究所)の「舟艇の部」に、まるゆ(ヘッセルマン)発動機月産32台との記載がある。

軍管区別兵器 製造設備能力分布状況表 昭和20.5
舟艇の部,軍管区別兵器 製造設備能力分布状況表 昭和20.5(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13120848500より)

 相模陸軍造兵廠15基/月の他、発動機製造(ダイハツ)、大阪金属工業(ダイキン)などの名前があるが、久保田鉄工所(クボタ)が0になっているのは3月の大阪空襲の影響だろうか。

 ダイハツでは、昭和17年春に帝国石油から油田開発用機械の原動機として、ヘッセルマンエンジンを受注したとの記録がある。形式は6EKH、シリンダ径178mm×行程178mm、毎分回転数1,150で200馬力、重量は2,800kgと記されている。
 また、ダイハツにはこのようなものも残っているようだ。

 200馬力ヘッセルマン機関取扱説明書 6EKH-A(産業技術資料データベースより)

 一方、このリストにはないが、新潟鐵工所が陸軍向けに南方油田さく井用として「統一型ヘッセルマン式H6SB形」160馬力(200馬力の記述もあり)を製作したとの記録がある。H6SBの要目を見ると、4サイクル6気筒でシリンダ径178mm×行程178mm、毎分回転数1,000となっている。
 さく井用としては、噴出する天然ガスを燃料に利用できるヘッセルマンの利点が生かせたのだろう。なお、海軍向けのさく井機には115馬力ディーゼルを用いたらしい。

 これらはまるゆ用のヘッセルマンを2基積んだ陸軍の「五式木製大護衛艇(乙)」の主機要目と出力以外は同じで、同一のエンジンと見てよいだろう。

5式木製大護衛艇(乙)取扱法(案)/附表
5式木製大護衛艇(乙)取扱法(案)/附表(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020289300より)

 なお、これら陸軍ヘッセルマンエンジンの原型はアメリカのワーケシャ"Waukesha"社が開発したもので、後にGEに買収されてガスエンジンのブランドとして今に残っている。

 ワーケシャ・ガスエンジン

 また、大護衛艇に積まれたヘッセルマンエンジンの写真が残っている。後に海軍でもヘッセルマンを航空基地の発電用に使用したようだ。

5式木製大護衛艇(乙)取扱法(案)/附図
5式木製大護衛艇(乙)取扱法(案)/附図(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020289400より)

木製大護衛艇2型 写真集
木製大護衛艇2型 写真集(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020289800より)

艦本式ディーゼルと2隻の2TL型戦時標準船【2017/3/12改稿】

 国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、1947/03/18(昭22)撮影のUSA-M124-103の一部。広島湾の大黒神島北部で擱座中の戦時標準船2TL型、さばん丸(1944年9月竣工)。

大黒神島北部(1947/03/18(昭22)撮影)
USA-M124-103(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス



 Naval History and Heritage Commandより、1945年7月24日に艦載機の攻撃を受けるさばん丸。すでに浅瀬に乗り上げて船体は半ば海面下に没している。同船はそれまでの空爆でこの場所で被弾着底していたものの、一旦は浮揚に成功して修理中であった。
80-G-490152 Raids on Japan, 1945
空襲下のさばん丸(出典:80-G-490152, Naval History and Heritage Command)

 同じく、1948/01/12(昭23)撮影のUSA-M731-115。徳山湾の西、太華山の麓で擱座中の戦時標準船2TL型、玉栄丸。

徳山湾西部(1948/01/12(昭23)撮影)
USA-M731-115(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス



 この2隻に共通するのは、戦後浮揚されて再就役を果たしたこと。そして、新造時に搭載していた機関が艦本式ディーゼルだったことである。
 元をたどると、横須賀での空母改装時に撤去されてしまった大鯨の主機関である複動2サイクル10気筒6,800BHP(定格)の艦本式ディーゼル11号10型を単動化し、三菱横浜で建造されたこの2TL型2隻にそれぞれ片舷1軸分2基がフルカンギヤごと搭載されたらしい。改造後の定格は1基当たり1,560~1,800と資料によってばらつきがある。

 単動化してなお不調だったとされるこの11号とフルカンギヤ、復旧工事でさばん丸の主機は蒸気タービンに換装された(1949年)が、玉栄丸に新たに搭載されたのはなんと艦本式ディーゼル25号2型であった(1948年)。

玉栄丸
玉栄丸(出典:Australian War Memorialより)

 艦本式ディーゼル25号は、それまでの2号より製造と取扱いが容易で性能に優れた潜水艦主機として三菱神戸で設計・製造され、2型が1944年に試運転までこぎ着けたものの、戦局の悪化に伴い潜水艦には搭載されず、生産も中止されたものである。
 戦局の都合で量産されなかった最新型。。。何か心を揺さぶられるものがある(ような気がする)。25号の詳細と写真については社史「新三菱神戸造船所五十年史」の他、本稿末尾掲載の「日本の艦艇・商船の内燃機関技術史」に掲載されている。

 以後、日本水産所属となった玉栄丸は、計16次に渡る南氷洋捕鯨と漁閑期のペルシャ・アメリカからの原油輸送、後にミール工船に改装されてからは北洋での母船式漁業にも従事し、地球を十文字に駆け巡ることになる。

 生産数1基の機関、控え目に言っても扱いづらかったと思うが。。。トラック島で引き揚げた第三図南丸を日本まで長駆2千海里曳航し、また南氷洋で事故により沈没した冷凍工船摂津丸の最後を見届けるなど、1975年(昭和50年)に解体されるまで、波乱万丈の生涯を送った戦標船であった。
 なお、いつまで25号を搭載していたかは不明であるが、解体までに再度機関換装を行った記録は未見である。

CiNii 論文 - 日本の艦艇・商船の内燃機関技術史(第2次世界大戦終結まで) -艦艇用内燃機関編(その2)-
CiNii 論文 - 日本の艦艇・商船の内燃機関技術史(第2次世界大戦集結まで) -商船用内燃機関編(その6)-

艦本式ディーゼルとその戦後(その1)(本blog内記事)

戦時商船標準機関始末記(その1)

 1943年(昭和18年)、海軍艦政本部からの指示により三井造船は岡山機械製作所の建設に着工した。大型商船用の戦時商船標準機関、62VF型5,000BHPの製作を担当させるものだったらしい。年間60基30万馬力の一貫製造能力を有し、昭和21年完成の計画であったが、昭和19年に鋳物工場が稼動して玉野造機工場に一部製品の供給を開始したものの、終戦と共に閉鎖されている。

 戦前デンマークのバーマイスター&ウェイン(Burmeister & Wain)社のディーゼル機関のライセンス生産を行っていた三井造船であるが、この時製造していた機関は2サイクル単動トランク型の1062VF115―10(気筒数)/62(cm,気筒内径)/VF(形式名)/115(cm,行程)―であった。
 では、この機関がどの船に搭載されたかというと、陸軍特殊船の甲型摩耶山丸と玉津丸である。いずれも三井造船玉野工場で建造され、本機関を2基2軸として搭載し、昭和19年に相次いで喪失している。

 さて、戦い終わって1949年(昭和24年)。戦時中の仕掛品として残っていたものを集めて完成させた1062VF115が1基、ある戦時標準船に搭載されることになった。船の名前は第一日新丸、大洋漁業所属の捕鯨母船(戦時標準船3TL型)である。

捕鯨母船第一日新丸
捕鯨母船第一日新丸(大洋漁業,戦時標準船3TL型)

 それまで蒸気タービン船として就航していた第一日新丸であるが、終戦直後に艤装された悲しさ、戦後南氷洋初出漁となった昭和22年頃はパイプの接手やバルブでまともに締まるものがなく、蒸気が漏れ放題になっていたという。また、船内工場では鯨油採取用ボイラーで蒸気を大量に使うため、工場が稼動し始めた途端に母船の速度は3ノットまで低下した。仕方がないのでボイラー6基のうち半分の3基を止め、ようやく6ノットで走ったと伝えられているが、本機関搭載により改善されたことと思われる。

 話はここで終わらない。第一日新丸はその後、新母船日新丸の就役に伴い、一旦油槽船に改装されて錦城丸と名を変えるが、その後再び捕鯨母船に改装される。もはや戦後ではない、と経済白書が述べた2年後の昭和33年、再度川崎MAN製の最新型ディーゼルに主機を入れ替えることになった。

 ここで余剰となった1062VF115であるが、そのままお役御免とはならずに再度別の船に搭載される。お古を頂いたのも戦時標準船、大洋漁業の冷凍工船として就役していた永仁丸(戦時標準船2A型)である。こちらも、それまで装備していた蒸気タービンを換装するのが目的だったのだろう。

冷凍工船永仁丸
冷凍工船永仁丸(大洋漁業,戦時標準船2A型)

 永仁丸は昭和55年に解体されて一生を終えるが、その後機関を換装した形跡はない。戦標船2隻を渡り歩いた戦時商船標準機関も珍しいものだろう。

戦時商船標準機関始末記(その2)【2017/3/12改稿】

 戦後、第一日新丸以外にもう一隻戦時商船標準機関1062VF115を積んだ船がいる。同じく大洋漁業所属の第二天洋丸(戦時標準船1TL型)で、当初冷凍工船として竣工したものの、後にタンカー市場の好況を受けて油槽船に改装されている。

第二天洋丸一般配置図1
第二天洋丸一般配置図(出典:造船協會會報,Vol. 1951 (1951) No. 83)

 後部船橋に"MOTOR LAUNCH"なるものが4隻搭載されているが、鋼製大型発動艇とされる14mの方はどうやら旧陸軍で使用した大発そのものを搭載したようだ。では10mの方は小発かというと、こちらは木製らしいのでよく分からない。
 大洋漁業の冷凍工船乗組員の回想にも旧軍の大発は登場し、大発のW型になっている船首船底に波が入って猛烈に縦揺れした、とのことである。陸軍船舶部隊からの払い下げ品という主機は故障が多発し、予備エンジンと頻繁に交換したと伝えられている。

 なお、冷蔵倉は一見二重底に見えるが、工期の関係もあって非水防とのことである。

 62VF型には第一日新丸、天洋丸に搭載された10気筒5,400馬力の他に、先立って製造された12気筒6,500馬力のモデルがある。1262VF115と命名されたそれは、大阪商船の報国丸級貨客船3隻(報国丸,愛国丸,護国丸)に2基ずつ搭載され、いずれも海底に沈むこととなった。

 第二天洋丸は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)、第一日新丸→錦城丸は翌昭和40年にそれぞれ解体され、その生涯を平和の中で閉じている。

-***-

 さて、この第二天洋丸であるが、本船は1TL型22番船大橘(だいきつ)丸(大阪商船)として、1944年(昭和19年)11月に川崎重工神戸にて起工、翌20年4月に進水したものの、5月に工事中止となって放置されていた。戦後大洋漁業が購入して名を改め、昭和22年6月に艤装工事を再開したものである。

 南氷洋捕鯨船団の附属冷凍工船としての艤装を調えるにあたり、未だ戦後の資材不足の続く中、装備の調達にはひとかたならぬ苦労があったようである。その一つが先に記した主機で、これも第一日新丸のものと同様仕掛け品を完成させたもののようだ。
 なお主機の生産番号順では第二天洋丸→第一日新丸で、三井造船では戦後の大型機関生産再開にあたり、始動式には紅白の幔幕がかけられ、喉自慢大会が開催されたという。

第二天洋丸一般配置図2
第二天洋丸一般配置図(中甲板)(出典:造船協會會報,Vol. 1951 (1951) No. 83)

 さらに、冷凍工船には冷凍設備、すなわち鯨肉を速やかに凍結させる急速冷凍装置と、そこで冷凍した鯨肉を保管する冷凍倉が必要になるが、この調達にも苦労の跡が見られる。一番の問題となったのは、冷凍機を運転する動力であったようだ。

 冷凍機は言ってみれば冷媒の圧縮機で、これは大洋漁業が手配したのだが、元々は陸上施設で使用していたものの転用らしい。これを動かす電動機がない。それまで使っていたものは使えない。なぜなら陸上施設の電源は交流、船舶の電源は当時ほとんどが直流だったからである。
 川崎がどこからともなく調達してきたのは、なんと航空母艦鳳翔のエレベーター用電動機であった。日立造船築港で解体された際の発生品であろうが、よくぞ見つけてきたものである。

 4基据え付ける冷凍機のうち、150馬力3基についてはこれで手当が付いたが、残る300馬力1基については、川崎で引き揚げた潜水艦の主電動機の改造に成功したのでこれを用いた、となっている。どうも定かではないが、建造中止の後枕崎台風により神戸沖で沈んだ伊号第一潜水艦 (2代)の主電動機を引き揚げてきたもののようだ。

 最後に、これら冷凍機の動力電動機に電力を供給する発電機である。これもない。やむを得ないので川崎お得意の潜水艦、この補助発電機を2基持ってきて缶室内に据えつけた。非常用発電機の2機と合わせて計4基の内訳は、2基が同じく伊1からの引き揚げ品、残り2基が仕掛品を完成させたものらしい。定格出力は冷凍機用/非常用がそれぞれ350/370kWとなっているが、いずれも元は巡潜などに搭載された400kW補助発電機であるように思われる。

 こうして6ヶ月で艤装を終え、第二天洋丸は第2次南氷洋捕鯨から5年間、冷凍工船として南氷洋に出漁した。昭和27年にタンカーに改装されたため、これら冷凍設備は撤去されたものと思われるが、その後も第7~17次南氷洋捕鯨に中積油槽船として参加している。

CiNii 論文 - 冷凍鹽藏船第二天洋丸の建造に就て

CiNii 論文 - 第二天洋丸の計劃に就て

汎用中型中速ディーゼル海陸を行く

 戦後本邦初の建造となった潜水艦おやしお(初代)の機関構成は、水上高速力を発揮する必要がなくなったこともあり、旧来のディーゼル/電動機からディーゼル・エレクトリックとな った。

おやしお (潜水艦・初代)(Wikipediaより)
潜水艦おやしお(初代)(出典:おやしお (潜水艦・初代),Wikipediaより)

 1960年就役の本艦の主機は、敗戦を境に一旦系譜が途絶えた日本の艦船用ディーゼルの替わりに、川崎M.A.N. V8V22/30mMALが2基搭載されていた。この4サイクル予燃焼室式ディーゼルは、1955年から川崎重工がライセンス生産を開始していたものであった。
 形式はV(エンジンシリーズ記号)8(気筒数)V(行程数,2サイクルはZ)22(cm,気筒内径)/30(cm,行程)であるようだ。よって、第二次世界大戦中Uボートの主機関として使用された、MV40/46系列と直接の繋がりはない。なお、そちらは戦中MAN社に勤務していたフランス人技師が、戦後SEMT社を設立して改良型を製作・販売している。

 VV22/30系列は6~16気筒をラインナップし、中型ディーゼルエンジンとして広く用いられた。以後、海上自衛隊の潜水艦はおおしお~うずしお型潜水艦の長きにわたって本系列エンジンを主機としており、駆潜艇かり型/みずとり型、輸送艦あつみ型/みうら型など水上艦にも搭載された。

 一方、その頃無煙化を推進していた国鉄では、DF50形ディーゼル機関車の500番台以降に、本系列の6気筒モデルV6V22/30MA(1,200ps)を採用している。

DF50(500番台)(Wikipediaより)
DF50(500番台)(出典:国鉄DF50形ディーゼル機関車,Wikipediaより)

 また、同時期に建造された青函航路の津軽丸型車載客船7隻と、続く渡島丸型車両渡船の前期建造3隻の主機にも、V8V22/30mALが4基をフルカン継手で1軸に接続する形で8基搭載されている。

津軽丸 (2代)(Wikipediaより)
津軽丸型車載客船(出典:津軽丸 (2代),Wikipediaより)

渡島丸 (2代)(Wikipediaより)
渡島丸型車両渡船(出典:渡島丸 (2代),Wikipediaより)

 余談であるが、車両甲板に機関室高さを制約されてこのような主機構成を取った津軽丸型、主機のピストン数は64、吸排気バルブ数は128になる。ピストン抜きとバルブ摺合せの作業の手間は想像したくない。

八甲田丸機関室(出典:青森市港湾文化交流施設ホームページ)
八甲田丸機関室(出典:森市港湾文化交流施設ホームページより)

 さて、先述のDF50形、0番台は何のエンジンを搭載していたかというと、三菱Sulzer 8LDA25A(1,060ps)である。この系列機関は、1930年代から鉄道用ディーゼル機関として世界各国で採用実績があり、本邦ではDD50形から搭載されている。
 表記は8(気筒数)LDA(エンジンシリーズ記号)25(cm,気筒内径)であるようだ。海に戻って艦船用としては、おやしおに続く小型潜水艦、はやしお型/なつしお型の主機として6LDA25Bが搭載された。

はやしお型潜水艦(Wikipediaより)
はやしお型潜水艦(出典:はやしお型潜水艦,Wikipediaより)

 DF50形以降、国鉄は1,000馬力級ディーゼル機関の自己開発に乗り出し、DD54を除けば、日本の鉄道に再び汎用ディーゼルが採用されるのはJR化後のDF200形まで待たなければならない。

JR貨物DF200形ディーゼル機関車(0番台)(Wikipediaより)
DF200形0番台(出典:JR貨物DF200形ディーゼル機関車,Wikipediaより)

 DF200形0番台に搭載されたMTU 12V396は系列機関を合わせて生産台数が1万台を越えるベストセラーであり、ドイツの209型、212A型、214型潜水艦の主機として用いられる他、軍用艦艇の発電用ユニットとしても採用されている。

209潜水艦(Wikipediaより)
209型潜水艦(出典:209型潜水艦,Wikipediaより)

 以上、共に中型中速ディーゼルを用いるディーゼル機関車と潜水艦の割と意外かもしれない関係。

 ちなみに、戦前の鉄道省が輸入したDC11形ディーゼル機関車にはMAN W6V28/38が搭載されており、本系列は戦前ソビエトの潜水艦の主機として採用されたもの。

石炭を焚く(その4 自動給炭機)

 さて、石炭焚きには自動給炭機(ストーカ)という給炭方法がある。石炭焚きの船舶のボイラーは発電所などの定置式ボイラーに近く、蒸気機関車に装備されたものとは異なるが、船舶用自動給炭機には大きく分けて2つの種類がある。

 1つは"chain grate stoker"(鎖床給炭機)というもので、細かく砕かれた石炭(粉炭)をチェーンコンベアに一定の厚さに積み上げ、これを火床として燃焼させつつ灰を送り出すものである。欠点は、灰分が多い石炭でないと火床の形成が難しいこと、通風が難しいことであろうか。
 もう1つは"underfeed stoker"(下込給炭機)で、こちらは炉内の火床に対し、突起付のプレートコンベアを用いて下方から石炭を供給するものである。

 で、underfeed stokerの説明に何かいい資料がないかと探していたら、こんなのあったんでもういいよね(投
 CiNii 論文 - 黒龍丸級船水管式汽罐とメカニカルストーカに就いて

黒龍丸(Wikipediaより)
黒龍丸(出典:黒龍丸,Wikipediaより)

 。。。これら共通する、というよりは自動給炭機の欠点として、燃料とする石炭の性質がある程度限定されること、急激な負荷の増減に対処しにくいことがある。主力艦に給炭機を装備することによる重量増、故障の確率、被弾時の破損などを勘案すると、燃料の重油化の方がよほど容易いだろう。
 また、当時の軍艦において、淡煙焚火にかなりの努力を払っていた節があるので、負荷の急変時に不完全燃焼の黒煙を出しやすい性質のある給炭機の装備は、この点でも難しいと思われる。

 加えて、これら自動給炭機が商船に装備され出したのは欧米においても第一次世界大戦後、日本においては1930年代に入ってからである。日本船が自動給炭機を装備した理由として、好景気による船員不足も一因であるらしい。戦前日本の下級船員の雇用形態は、今の目から見れば独特のものである。

 他にやや性質は異なるが、名古屋丸級(Wikipedia)2隻(石原産業海運)、(名古屋丸/三菱長崎,2番船浄宝縷(ジョホール)丸/播磨造船)は粉末にした石炭を燃焼させる微粉炭燃焼装置を装備していた。

 どうでもいいが、浄宝縷(ジョホール)丸に、鉄道兵だった祖父が中国~台湾~フィリピンと乗船したことがあるらしく、10年ほど前に缶に何か装置が付いていたかどうか聞いてみたことがある。が、機関室に入らなかったので知らないとのこと。祖父がやっていたのは機関車の運転ではなくて軌道敷設の方なので、当然と言えば当然であるが。
 付記するなら、名古屋丸級に装備された微粉炭燃焼装置は「不成功に終わり」との回想があり、数年後に撤去して手焚に改造されたらしく、祖父が乗船した際にはすでに装備されていなかった可能性が高い。

 そういえば、国鉄の蒸気機関車で、特急のC62だかのストーカを止めて手で焚いてた(確か東北)とか、ストーカなしのC60を急行に、ありのC61を準急に充当していた(確か九州)などという話もあった気がする。いずれも、給炭機を用いると、煤煙に微細な燃え殻(シンダ)が混じるのが理由だったらしい。

 もはや話の方向性が定かでなくなってきたが、船舶の自動給炭機は後の昭和の世の話であって、超弩級艦の時代にすでに石炭焚きの限界は見えており、その解決手段としては重油専燃化であったとみてよい。

 なお、戦後は大型船舶の燃料にもはや石炭は用いられず、国鉄連絡船がその数少ない例外であろう。洞爺丸台風以後の青函連絡船には、労働環境の改善・安全性の向上のため、自動給炭機が装備されることになる。青函連絡船の自動給炭機については、国会でも話題になったことがある。

 衆議院会議録情報 第012回国会 運輸委員会 第5号第8号

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再掲)CiNii 論文 - 黒龍丸級船水管式汽罐とメカニカルストーカに就いて

 。。。ここに出てくるストーカ装備船(P23)のうち、ビーバーフォード(Beaverford)はポケット戦艦アドミラル・シェーアにジャーヴィス・ベイと同時に撃沈された船。その時までストーカ装備してたかどうかは分からない。

 不具合もあって外した船もあるようだし、結局主流とはなりえなかった訳だ<メカニカル・ストーカ

石炭を焚く(その3 石炭は歩いてこない)

アジア歴史資料センターレファレンスコード:C08020811300 P10
 大正5年、新造出来立てほやほやの扶桑である。機関出力40,000馬力を少なくとも6時間継続できるようだ。 。。ところで、この表では平均40,000馬力で21.6ktということになってますが、新造時の扶桑型は機関出力何馬力で何ノットってことになってましたっけか。

アジア歴史資料センターレファレンスコード:C13071971700 P2
 扶桑型は40,000馬力で22.5ktらしい。長門型は80,000馬力で23kt。1ページ目には、昭和6年に「艦艇要目公表範囲を別表のとおり定める」とある。一般に公表するのはこの数字、という訳だ。

アジア歴史資料センターレファレンスコード:C08020811300 P46
 昭和2年の伊勢の石炭搭載状況。扶桑型のものが見当たらないけれど、そんなに違いはないだろう。

 平賀譲デジタルアーカイブ 資料番号:2116 軍艦山城一般艤装図(8/12) 中甲板の両舷に規則正しく開いている丸い穴が、石炭搭載口。
 同じく軍艦山城一般艤装図(2/12)。"Coal"と書いてあるのが石炭庫。缶室横だけでなく、機関室、砲塔側面までびっしり石炭が搭載されている。缶室に供給しにくい位置にもあるが、搭載量の確保以外に、石炭に防御も期待しているので、当然と言えば当然ではある。

アジア歴史資料センターレファレンスコード:C04015805200 P31
 では、石炭焚きの超弩級戦艦が全速航行したらどうなるか。伊勢が三戦速23kt5万6千馬力を出すと、時間当たり30t弱の石炭を消費する。缶前に事前蓄積した80tは、およそ2時間半少々で使い切る計算。
 ここから先は、炭庫から搬炭員が運んでこないといけない。炭庫も取り出しやすい手前から奥へ行くに従い、缶への供給効率は落ちる。戦闘中でなければ、他から応援が望めるけれど。。。

アジア歴史資料センターレファレンスコード:C08051188500 P10~
 石炭(練炭)が大正4年製だった上、休業者が多かったので、缶替え(灰捨て)やると蒸気が維持できなかったよー、とのこと。
 一方、1人増員して9人いれば2昼夜やれる、とも。「この程度」の想定は、この時発揮した24~25ktと思われる。つまり、現状だとこの程度がちょっと怪しく場合によっては1昼夜でバテるかも、と。

特務艦洲崎(初代)と戦艦山城
特務艦洲崎(初代)と戦艦山城,大正末頃(出典:筆者所蔵,曽祖父撮影)

 1916年(大正5年)竣工の「志自岐」を嚆矢として、一連の海軍タンカーの整備によって、重油専焼への切り替えが行われようとしていたのも時代の流れだろう。そのうちの1隻、洲崎には、機関長として私の曽祖父が乗艦していた。

※平賀譲デジタルアーカイブは、一度「閲覧はこちら」を押すと見られる筈

石炭を焚く(その2 軍艦国産重油を焚く)

アジア歴史資料センターレファレンスコード:C04015262500 P22
 巡洋戦艦霧島全力運転2時間、75,912軸馬力。この時の石炭消費量は毎時45.5t、毎分21kg/缶。ところで、改装前の金剛型って機関出力何馬力ってことになってましたかね。

アジ歴レファレンスコード:C08021178500 37P
 ちょっと時代は遡って大正7年、金剛が使用している重油は秋田産。軍艦用液体燃料を、日本が自給できていたのはこの頃まで。

 実は、日本国内の原油生産量がピークに達したのは、1915年(大正4年)から翌16年にかけて。年間47万kL弱といったレベルであるが、これには関税による保護政策が関わっている。

紀洋丸(Wikipediaより)
紀洋丸(出典:紀洋丸,Wikipediaより)

 東洋汽船が1907年(明治40年)、初の国産航洋タンカー紀洋丸を起工する。ところが、時を同じくして、政府が国産原油の保護のため、原油の輸入に対する関税を引き上げた(1909年)。
 結果、タンカーとして竣工した紀洋丸は、南米移民船として改装する羽目になり、本来の目的であった油槽船への再改装が完了するのは、軍艦用燃料の需要が増大する動きを見せはじめた1921年(大正10年)のことになる。

 同じ頃、国産航洋タンカーの第二段が竣工をはじめる。つまり、戦前の日本のタンカーの歴史は、1920年から1945年までのわずか四半世紀しかないということになる。

 太平洋戦争の4年間で、わずか20年の間に築き上げた60万トン近い船腹はすべて戦火の中に消え、戦前から生き残った国産航洋タンカーは、1928年(昭和3年)建造のさんぢゑご丸(7,269t)ただ1隻のみであった。

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 日本の石油についての歴史は、JOGMECで公開されている「戦争と石油」が詳しい。執筆者の岩間敏氏は石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」 (amazon.jpより)の著者の方。

石炭を焚く(その1 巡洋戦艦驀進す)

巡洋戦艦金剛(新造公試中)
新造公試中の巡洋戦艦金剛(出典:金剛 (戦艦),Wikipediaより)

 ところで、新造時の金剛型~扶桑型~伊勢型は、それぞれ主缶に混焼缶を搭載していた。通常は石炭のみで焚火するが、高出力の発揮が求められる時に重油噴燃器(重油バーナー)を挿入して点火し、ブーストをかけるものである。

建築設備技術遺産認定 巡洋戦艦「金剛」搭載のヤーロー式ボイラー(呉市海事歴史科学館 大和ミュージアムより)

 金剛に搭載され、大改装時に降ろされた36基のヤーロー式缶のうち1基が、呉の大和ミュージアムに現存する。石炭を投入する焚火口 は4つ、その上の3つの黒丸は各缶3基のバーナー挿入口であろう。焚火口の下の3つの長方形は、灰出し口と思われる。

 さて、大正6年9月10日、金剛が豊後水道で戦闘運転を実施した記録を見ると、6時間平均で63,800軸馬力、平均速力25.4ktを発揮している。この時、燃料消費量は毎時あたり石炭41.5tと重油10tであった。
 アジア歴史資料センターレファレンスコード:C08020987100 P57

 金剛の缶は36基あるので1基当たり毎時1.15t、毎分に直すと19kgの投炭量となる。石炭は、重油と違ってバルブの開閉で燃料タンクから供給されるものではないし、ましてや自分で歩いてこない。炭庫から缶前までも運んでこなくてはならない。もちろん人力で、である。

 これに加えて、石炭は燃えた後に灰が出る。いわゆる石炭殻で、灰というよりはむしろ砂利である。燃料炭は練炭であるが、灰分5%として毎時60kg弱、10%として120kg弱の赤熱する砂利を燃え盛る缶から掻き出し、海水をぶっかけて冷やしてからアースポンプにかけて艦外に排出する必要がある。
 これらの作業を1缶当たり8名ほどの定員で、機関の高出力運転が続く限り行わなくてはならない。記録を手繰っていくと、金剛が20ktを発揮する際には、すでに缶部が通常の三直配置では追いつかず、二直の人員配置を要し、23ktでは他の機関部も二直となるようである。

 投炭と聞いて思い浮かべる蒸気機関車の機関助士は、30分で600kgの投炭量が一つの目安とされていたそうだが、一乗務あたりの投炭量が2tを越えると2名乗務となったらしい。どちらが条件が厳しいかは一概に言えないが、重労働であろうことは理解できる。

 なお、金剛は新造公式試験で78,000軸馬力余で27.5kt余を発揮しており、この時の石炭消費量は毎時50t近いと思われる。一方で、石炭専焼での全力試験も行っており、重油なしでも20分ほど64,000shpが出たようだ。この時の投炭量は毎時にして60t、1基当たり毎分27.6kg。重油ブースト分で14,000馬力の計算になる。
 アジア歴史資料センターレファレンスコード:C08051188500 P43

 この過酷な機関科の様子を、横須賀の海軍機関学校に嘱託教授として奉職した昭和の大文豪が、文章にして遺している。缶室に降りるエレベーターがあるんだなぁ、と思わぬ発見がある。

 「軍艦金剛航海記」 芥川龍之介 (出典:青空文庫より)

 いずれにせよ、これら日本の主力艦は、高速力を長時間発揮する必要に迫られた際に不利になったことであろう。同時期に竣工した米英の戦艦は、すでに専焼缶への切り替えを進めている。第一次世界大戦の地中海、ゲーベン追跡戦で起こったことが起こりえない理由もない。

外国航路石炭夫日記―世界恐慌下を最底辺で生きる(amazon.jpより)
 商船も石炭焚きだった時代は当然ある訳で、そんな時代の船で缶を焚くお話。大西洋航路の定期船はどんなんだったんだろうな。。。モレタニアとか焚きたくないなぁ。

海軍製錬炭(出典:久留米観光サイトほとめきの街くるめより)
 日露戦争以降の軍艦の石炭燃料は、後の徳山海軍燃料廠で作られた練炭を使用している。

おまけ:戦前の機関助士試験の動画、投炭試験(13分25秒~)

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