最後の重構桁道路橋

 戦後日本国内で用いられた重構桁(JKT)のうち、最も有名なものは大夕張地区に残存するいくつかの森林鉄道の鉄道橋及び林道の道路橋であろう。いくつかはまだアクセス可能な位置にあり、残りは状況によっては遠望することができるものと思われる。

下夕張森林鉄道夕張岳線第六号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)
下夕張森林鉄道夕張岳線第六号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

 これら以外に重構桁が用いられた記録としては、国鉄で災害によって橋梁が流出した際に仮設橋梁として使用された例があるが、復旧に伴い撤去されて現存しない。応急橋・架設桁用として国鉄三島操機区に保管されていた重構桁は、昭和45年に廃棄処分になっているようだ。
 他に戦後しばらくの間、大阪で歩道橋として使用されていたこともあるが、やはり現存しない。

 一方、重構桁を改造・転用し、道路橋として用いられた例がいくつか記録に残っている。

1)深沢橋(栃木県) 不詳 鋼重49t 1947年(昭和22年)完成
2)渚橋(岐阜県)支間35m 58t 1948年完成
3)岩井谷橋(宮崎県)支間32m幅員5.5m 4列2段 53t 1948年完成
4)越野尾橋(宮崎県)橋長20m幅員4.5m 5列1段 26t 1948年完成
5)落合橋(滋賀県)3列1段 14t 1949年完成
6)広河原橋(宮崎県)不詳 16t 1949年完成
(以上出典:曽川正之追想録 (1982年),横河橋梁製作所『横河橋梁八十年史』(1987年))

 いずれの橋も現存しないとされているが、2)の渚橋が1985年末(昭和60年)まで残存した最後の重構桁道路橋であったようだ。写真も残されており、架橋されていた位置はJR渚駅近く、高山本線が飛騨川を渡る付近である。



 国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、1948/03/30(昭23)撮影のUSA-R1216-79の一部。未舗装であるからか白く見える道路を渡している、中央の橋が渚橋であろう。

岐阜県高山市久々野町渚付近(1977/10/20(昭52)撮影)
USA-R1216-79(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 同じく1977/10/20(昭52)のCCB7711-C1B-31より、国道の付け替え後の姿。晩年は人道橋として用いられたという。

岐阜県高山市久々野町渚付近(1948/03/30(昭23)撮影)
CCB7711-C1B-31(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 道路橋として用いられた重構桁のうち、最大級であろう本橋の往時の姿を伝える資料もある。

渚橋資料
(上段:曽川正之追想録 (1982年),下段:横河橋梁製作所『横河橋梁八十年史』(1987年))

 高山本線の脇にある旧渚橋の橋台跡。谷はそれなりに深さがあり、現存していれば中々見ごたえのある重構桁道路橋であったことだろう。

旧渚橋橋台
旧渚橋橋台,左手は高山本線(2016年1月11日筆者撮影)

 旧国道は一段高い位置に建設された新道への土盛りで路盤が埋め立てられ、接続を失っている。わずかに人の歩ける程度の幅の小径が残っているが、草木に埋もれて通行は難しい。

右岸旧国道41号
右岸旧国道41号(2016年1月11日筆者撮影)
 護岸の上のガードレールが新国道、石垣の途中に白く積雪しているところが旧国道の路盤の位置

 国道41号線を渡していた渚橋であるが、下流にある新渚橋が昭和42年8月完成であることから、その頃対岸を通る新道に切り替えられた後、昭和61年まで(少なくとも名目上は)人道橋として残存したようだ。旧国道は現在でも確認出来るものの、路盤の植生が使われなくなってからの年月を想起させる。

左岸旧国道41号
左岸旧国道41号(2016年1月11日筆者撮影)
 積雪している2つの平面のうち上側がJR高山本線、下が旧国道41号線の路盤。左手奥が旧渚橋架橋位置

瀬戸内海に眠るコンクリート船(その3)

 太平洋戦争末期、戦時標準船2E型相当のコンクリート製輸送船が4隻建造された。いわゆる武智丸型であるが、そのうちの2隻は広島県呉市安浦町の安浦漁港の防波堤となって今に現存する。

第一・第二武智丸(広島県呉市安浦町安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)
第一・第二武智丸(広島県呉市安浦町安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)



 国土交通省の地図・空中写真閲覧サービスより、1962/05/31(昭37)撮影のMCG629-C13A-21の一部。第一・第二武智丸2隻を沈船防波堤とする工事は昭和25年春に完成し、当時は陸地と連絡していなかった。
呉市安浦町安浦漁港1962/05/31(昭37)
MCG629-C13A-21(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 1975/01/31(昭50)撮影のCCG-747-C22B-72の一部。この頃第一武智丸に繋がる東側の埋め立てが始まったらしい。
呉市安浦町安浦漁港1975/01/31(昭50)
CCG-747-C22B-72(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 1981/10/15(昭56)撮影、CCG814-C6A-34の一部。繋がったけれど、岸側の第一武智丸沖側の護岸工事はまだのようだ。
呉市安浦町安浦漁港1981/10/15(昭56)
CCG814-C6A-34(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

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 さて、4隻建造された武智丸型であるが、第一・第二武智丸はこうして沈船防波堤となり、第三武智丸は終戦直前に小豆島沖で触雷沈没、第四武智丸は終戦後神戸で座礁、廃棄されたと伝えられている。

 防波堤となる前、第一武智丸は機関故障のため、呉の警固屋地区でしばらく放置されていたらしい。第二武智丸は終戦後大阪商船に払い下げられたものの、ほとんど運航されずに廃棄され、大阪にいたとのこと。

 国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、1947/05/05(昭22)撮影のUSA-M280-77の一部。呉市警固屋地区やや北方、呉製鉄所沖に係留中のコンクリート船第一武智丸(推定)。
呉市警固屋地区沖合1947/05/05(昭22)
USA-M280-77(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 1番違いの連番USA-M280-78になると、こんなにも写り具合が変化してしまう。レンズの歪みなどもあって難しい。
呉市警固屋地区沖合1947/05/05(昭22)
USA-M280-78(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 色々ひねくり回してみたけれど、まあ、多分、そんなに間違ってないんじゃないだろうか。左からUSA-M280-77,USA-M280-78,GoogleMapより。
左からUSA-M280-77,USA-M280-78,GoogleMap

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 コンクリート船は一旦は戦時計画造船に組み入れられたものの、戦局の悪化による計画縮小により最終的には中止されている。よって、武智丸型を戦時標準船とするかどうかは定義に拠ることになるかと思われる。

やすうら夢工房
 コンクリート船 武智丸

ヨコハマ造船所
 海軍コンクリート造船技術概要

瀬戸内海に眠るコンクリート船(その2)

 太平洋戦争中に建造された被曳航式コンクリート油槽船の残骸が、山口県下松市の笠戸島にある。夕日岬の北側、満潮時にはわずかに海面に姿を表す程度であるが。

被曳航式油槽船(山口県下松市笠戸島夕日岬,2015年5月5日筆者撮影)
被曳航式油槽船(山口県下松市笠戸島夕日岬,2015年5月5日筆者撮影)



 さて、この残骸はいつからここにあるのだろう。国土交通省の地図・空中写真閲覧サービスより、1962/05/19(昭37)のMCG625-C8-12の一部を拡大したもの。この時、もうすでに残骸であったらしい。

笠戸島夕日岬1962/05/19(昭37)
MCG625-C8-12(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 では、もう一つ遡ろう。1947/03/12(昭22)撮影のUSA-M114-83の一部を拡大したもの。船の形をしたものが4隻確認できる。

笠戸島夕日岬1947/03/12(昭22)
USA-M114-83(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 現残骸がこのうちの1隻である可能性は高いが、残りの3隻はどこへ行ったのだろう。今も水面のベールの下に存在するのか、それともどこかへ運ばれていったのか。

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 さて、被曳航式コンクリート油槽船がより原型に近い形で残っている場所があり、広島県呉市音戸町の坪井漁港の防波堤として現存する。

被曳航式油槽船(広島県呉市音戸町坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)
被曳航式油槽船(広島県呉市音戸町坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)



 国土交通省の地図・空中写真閲覧サービスより、1948/01/07(昭23)撮影のUSA-M2-6-73の一部を拡大したもの。中央は大破着底した戦艦伊勢。

呉市音戸町坪井漁港1948/01/07(昭23)
USA-M2-6-73(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 ちょうど漁港の防波堤になる位置ではあるけども、なんというか、ものすごく邪魔だったというか、迷惑だったんじゃないだろうか。

音戸町坪井沖で爆撃を受ける伊勢(出典:Wikipediaより)
音戸町坪井沖で爆撃を受ける伊勢(出典:Wikipediaより)

 10年余り時代を下って、1962/07/30(昭37)撮影のMCG628-C29B-3の一部を拡大したもの。伊勢が解体撤去され、漁港に被曳航式コンクリート油槽船の防波堤が設置されている

呉市音戸町坪井漁港1962/07/30(昭37)
MCG628-C29B-3(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 防波堤の脇の建設記念碑。薄れて読みにくくなった裏面の碑文には、昭和31年12月にこの碑が建立された旨が記されていた。

防波堤建設記念碑(広島県坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)
防波堤建設記念碑(広島県呉市音戸町坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)

-***-

 最後に、坪井漁港と同様に被曳航式油槽船が防波堤として設置されていたと思われる、山口県周南市の粭島漁港。1962/05/19(昭37)撮影のMGC625-C8-3、防波堤がそれらしい形をしている。

山口県周南市粭島1962/05/19(昭37)
MGC625-C8-3(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス



 どうやら比較的早期(昭和43~45年頃?)に撤去されたらしく、すでに現存しない。

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 最初の笠戸島夕日岬の写真で確認できる4隻のうち、1隻が現地の残骸、1隻が坪井漁港、1隻が粭島漁港とすると、残りは1隻。下関の方で同様に沈船防波堤となったという話を聞いたことがあるが、はてさて。

鉄道連絡船のその後

 国鉄の鉄道連絡船で、廃船後にポンツーンになったと伝えられている船が何隻かある。関係者の手記に登場するのは第八青函丸、日高丸、十勝丸(?)、紫雲丸あたりで、いずれも関西~瀬戸内海の造船所で余生を送ったという。

 このうち、日高丸と紫雲丸は平成の世まで現存したことが分かっている。場所は広島の新来島宇品どっく。すでに平成4年頃?に解体されているので現存しない。

 国土交通省の地図・空中写真閲覧サービスより、1988/10/10(昭63)撮影のCCG881-C22-2の一部を拡大したもの。おそらく左のポンツーンがex-紫雲丸、右がex-日高丸ではないかと思われる。

新来島宇品どっく1988/10/10(昭63)

八戸港の沈船防波堤―戦時標準船2TL型の戦後

 国土交通省の地図・空中写真閲覧サービスより、1961/04/28(昭36)撮影のMTO611-C5-212の一部(明度・コントラスト調整)。 戦時標準船2TL型3隻による沈船防波堤で、西(写真左)から順に東城丸、大杉丸(未成)、富島丸(未成)、沈設は昭和23年7月。

八戸港1961/04/28(昭36)
MTO611-C5-212(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 残念ながら現存せず、現地には「船の碑(いしぶみ)」と題する記念碑のみが残っている。



 1975/11/12(昭50)撮影のCTO7517-C13-42の一部。最西端の一隻が撤去された模様。Web上では沈船防波堤は昭和42年撤去との記述を見かけるが、この時撤去されたのは東城丸のみらしい。

八戸港1975/11/12(昭50)
CTO7517-C13-42(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 1992/06/26(平4)撮影のTO921X-C20-13の一部。すべての沈船防波堤が撤去され、現在とほぼ同じ状態になっている。残りの二隻が撤去されたのは、1985年 (昭和60年)のことのようだ。

八戸港1992/06/26(平4)
TO921X-C20-13(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 沈船防波堤の写真を見たことがあるが、富島丸の船首に足場を組んだような灯台が設置してあり、戦標船の直線的な舳先とあいまって独特の雰囲気があったことを記憶している。

”八戸港沈船防波堤の出来上る迄” 土木学会誌より
 第三十四巻 第一号 昭和24年4月発行 (1949年)
 第三十五巻 第二号 昭和25年2月発行 (1950年)

国土交通省東北地方整備局 八戸港湾・空港整備事務所
 応急方法だった沈船防波堤

瀬戸内海に眠るコンクリート船(その1)

 太平洋戦争末期、鉄材の不足に悩む日本は、代用資材による船舶の建造を試みた。その一環として、戦時標準船2E型相当のコンクリート製輸送船が終戦までに4隻建造されたと言われている。

 そのうちの2隻が、終戦後広島県呉市安浦町の安浦漁港の防波堤となって今に現存する。
武智丸(広島県安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)武智丸(広島県安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)

 戦後、艦船を防波堤とした例はいくつかあったが、北九州の若松港のものを除いて現存しない。八戸の戦時標準船2TL型は拡張工事で撤去され、駆逐艦・海防艦を防波堤にしたものの、不良工事による基礎の洗掘で数年を経ずして要を為さなくなった例もある。
武智丸(広島県安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)(広島県安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)

 安浦漁港の2隻は、船体は半ば埋没し、傾斜しているものの、未だ当時の姿を現在に伝えている。
武智丸(広島県安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)武智丸(広島県安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)

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 また、太平洋戦争末期、南方からの原油還送をわずかでも促進するべく、曳航式の油槽船が建造されたことがある。資材不足の折、コンクリートで建造された一隻が、広島県呉市音戸町の坪井漁港で防波堤として現存する。
被曳航式油槽船(広島県坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)被曳航式油槽船(広島県坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)

 もちろん、敵潜の跋扈する海域を、こんな代物を好き好んで曳航したい者がいる筈もなく、ここで防波堤として余生を過ごせたのは幸いであったと言うべきであろう。
被曳航式油槽船(広島県坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)被曳航式油槽船(広島県坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)

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 ところで、被曳航式コンクリート油槽船のうち、現存が知られているもう1隻はやはり瀬戸内海にある。山口県下松市、徳山沖に浮かぶ笠戸島の夕日岬の北側に、満潮時にはわずかに海面に姿を表す程度の残骸として。
被曳航式油槽船(山口県笠戸島夕日岬,2013年7月14日筆者撮影)被曳航式油槽船(山口県笠戸島夕日岬,2013年7月14日筆者撮影)

 ここに骸を晒すに至った経緯は定かでないが、徳山の燃料廠と何らかの関係があるのだろう。終戦後、台風で繋留索が切れてここに座礁し、サルベージしたところで鉄材が得られる訳でもないので、そのまま打ち捨てられたと思われる。訪れる者もいない入江で、このまま朽ち果てていくのだろう。
被曳航式油槽船(山口県笠戸島夕日岬,2013年7月14日筆者撮影)被曳航式油槽船(山口県笠戸島夕日岬,2013年7月14日筆者撮影)

(山口県笠戸島夕日岬,2013年7月14日筆者撮影)(山口県笠戸島夕日岬,2013年7月14日筆者撮影)

シューパロ湖に沈む森林鉄道遺構―三弦橋と重構桁鉄道橋(その2)

 さて、シューパロ湖に水没した重構桁(じゅうかまえげたorけた,JKT)鉄道橋であるが、元をたどれば、昭和23年(1948)に桜田機械が札幌営林局に重構桁6連168トンを納入した記録があるようだ。
 その内訳は不明であるが、これが大夕張ダム完成前の下夕張森林鉄道旧線に用いられ、重構桁鉄道橋として、第一号橋梁(支間20m2連)、同第四号橋梁(14m2連)、同夕張岳旧線 下夕張川橋梁(27.5m2連)、同第一号橋梁(20m2連)の4橋梁計8連が存在した。

 そして、大夕張ダム完成による水没補償工事として、下夕張森林鉄道の第一号橋梁(三弦橋)が完成したことは前述したが、この時27.5m2連(第六号橋梁)、20m1連(第五号橋梁)が転用され、他に20m1連(現存しない)が新線に移設転用されたようだ。
 となると、ここで行方不明になった重構桁は、補償工事時に20m2連と14m2連、廃線後に20m1連である。これらの重構桁はどこへ消えたのか。

 このうち、20m1連は所在が知られている。国道452号を北に向かうと、道路からも姿が確認できる。小巻沢林道橋である。 幸いにして標高が高く、シューパロダムの建設によっても水没する位置にはないと思われる。よって、この旧軍遺産もまだ目にすることができるだろう。。。今しばらくは。
小巻沢林道橋(2009年8月14日筆者撮影)小巻沢林道橋(2009年8月14日筆者撮影)

 近年右岸の橋脚の洗掘が進み、すでにレベルが保てなくなりつつある状態である。
小巻沢林道橋(2007年9月21日筆者撮影)小巻沢林道橋(2007年9月21日筆者撮影)

小巻沢林道橋(2009年8月14日筆者撮影)小巻沢林道橋(2009年8月14日筆者撮影)

小巻沢林道橋(2009年8月14日筆者撮影)小巻沢林道橋(2009年8月14日筆者撮影)

-***-

 もうひとつ所在が判明しているのが、パンケホロカ右股林道の香取橋である。約17m2連相当が使用されており、こちらは位置的に水没の恐れはない。
香取橋(2011年8月17日筆者撮影)香取橋(2011年8月17日筆者撮影)

小巻沢林道橋は研究文献や「鉄道廃線跡を歩く」シリーズ(旧版)にも取り上げられており、まだしも知名度があるが、こちらはまったくといってよいほど鉄道分野に存在が知られていない。わずかに炭鉱跡を追う人達が、その存在をWeb上に記している程度である。
香取橋(2011年8月17日筆者撮影)

 ここ10年間ほど毎年夏に渡道して調べてきたが、残る14m2連の所在は掴めていない。果たして、この夕張の山中に存在するや否や。「かとりはし」と「昭和42年8月竣工」の銘板。
香取橋(2011年8月17日筆者撮影)香取橋(2011年8月17日筆者撮影)

香取橋(2011年8月17日筆者撮影)香取橋(2011年8月17日筆者撮影)

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 最後に、今の地理院地図からは消えた森林鉄道の痕跡。いずれ三弦橋も地図から消えるのだろうが、重構桁鉄道橋が消えるのはいつのことだろうか。
国土地理院地図(2006年)

シューパロ湖に沈む森林鉄道遺構―三弦橋と重構桁鉄道橋(その1)

 北海道夕張市に、シューパロ湖という湖がある。今から半世紀ほど前に、大夕張ダムの完成によって誕生した人造湖である。当時、石炭の産出とともに、林業でも栄える町だった夕張には森林鉄道があり、ダムの建設で水没する路線は架け替えられることになった。

 しかし、林業の衰退とともに、ダム完成から数年を経ずして廃線となり、ダム湖とその湖畔にはいくつかの橋梁が残されることになった。下夕張森林鉄道夕張岳線第一号橋梁こと三弦橋は、湖面に静かにその影を落としていた。
下夕張森林鉄道夕張岳線第一号橋梁(三弦橋)(2009年8月14日筆者撮影)下夕張森林鉄道夕張岳線第一号橋梁(三弦橋)(2009年8月14日筆者撮影)

 第二号から第四号までの橋梁も、湖畔の国道沿いから遠望することができた。
下夕張森林鉄道夕張岳線第二号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)下夕張森林鉄道夕張岳線第二号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

下夕張森林鉄道夕張岳線第三号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)第三号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

下夕張森林鉄道夕張岳線第四号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)第四号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

 そして、第五号橋梁と第六号橋梁には、独特のトラスが使用されていた。旧日本陸軍の鉄道部隊が用いた、分解可搬式のトラス桁である重構桁(JKT)である。おそらくは終戦後、資材不足の時代に残っていた国内在庫を用いたものだろう。
下夕張森林鉄道夕張岳線第五号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)下夕張森林鉄道夕張岳線第五号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

下夕張森林鉄道夕張岳線第六号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)第六号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

 大夕張ダムの直下に、新たに夕張シューパロダムが計画され、近年建設が進められてきた。ほぼ完成に至ったシューパロダムは、大夕張ダムとこれら橋梁群を飲み込んで、現在試験湛水中である。
 2014年4月28日、この日をもって三弦橋以下の残存橋梁はすべて水没し、以後は水位の低下時に出現するのみとなった。現時点での試験湛水の状況はこちらのとおり。

夕張シューパロダム 試験湛水状況写真

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 同時に、同じく湖畔を走っていた三菱石炭鉱業大夕張鉄道線の旭沢橋梁も水没することになる。旧国道より撮影、奥に見えるのは付け替えられた新国道。
三菱石炭鉱業大夕張鉄道線旭沢橋梁(2009年8月14日筆者撮影)三菱石炭鉱業大夕張鉄道線旭沢橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

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 大夕張ダムと夕張シューパロダムの位置関係。手前が大夕張ダムで、三弦橋はその提体のわずか上に位置する。
シューパロダム(2013年8月11日筆者撮影)

シューパロダム(2013年8月11日筆者撮影)シューパロダム(2013年8月11日筆者撮影)

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 そして2014年夏。これら橋梁を飲み込んで、シューパロ湖は水を湛えている。
シューパロダム(2014年8月13日筆者撮影)

シューパロ湖(2014年8月13日筆者撮影)シューパロダム(2014年8月13日筆者撮影)

 わずかに旭沢橋梁のみが、一部を水面上に現していた。
三菱石炭鉱業大夕張鉄道線旭沢橋梁(2014年8月13日筆者撮影)三菱石炭鉱業大夕張鉄道線旭沢橋梁(2014年8月13日筆者撮影)
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