ミ18船団の戦時標準船K型3隻
Images reveal three more Japanese WWII shipwrecks torn apart for scrap
国星丸、日金丸、日和丸。全部ミ18船団所属の戦標K型だなぁ、と思う。中国船の違法サルベージによって、これら三船の残骸が鉄くず回収目的で引き上げられたことを報じる記事。
1944年10月1日
国星丸(こくせい-,大阪商船)積荷不明,陸軍兵31船砲隊1船員15戦死
同10月2日
日金丸(ひがね-,日本郵船)ボーキサイト7,700t他,便乗者7警戒隊2船員6戦死
日和丸(ひより-,日本郵船)ボーキサイト7,790t他,便乗者4警戒隊3船員27戦死
回収できるのはせいぜい3,000t/1隻くらいの鉄だろうと思うが、記事の下の方にはこれら沈船回収の一般的動機として、リン青銅製のプロペラと"Low-background steel"(いわゆる陸奥鉄)に言及している。戦標2Eで鋳鉄ペラのがいたと思うが、K型がどうであったかは分からない。
国星丸、日金丸、日和丸。全部ミ18船団所属の戦標K型だなぁ、と思う。中国船の違法サルベージによって、これら三船の残骸が鉄くず回収目的で引き上げられたことを報じる記事。
1944年10月1日
国星丸(こくせい-,大阪商船)積荷不明,陸軍兵31船砲隊1船員15戦死
同10月2日
日金丸(ひがね-,日本郵船)ボーキサイト7,700t他,便乗者7警戒隊2船員6戦死
日和丸(ひより-,日本郵船)ボーキサイト7,790t他,便乗者4警戒隊3船員27戦死
回収できるのはせいぜい3,000t/1隻くらいの鉄だろうと思うが、記事の下の方にはこれら沈船回収の一般的動機として、リン青銅製のプロペラと"Low-background steel"(いわゆる陸奥鉄)に言及している。戦標2Eで鋳鉄ペラのがいたと思うが、K型がどうであったかは分からない。
第一次・二次戦時標準船の竣工時期
荷役中の戦時標準船3D型
Australian War Memorialより、呉で荷役中の戦時標準船3D型辰清丸。朝鮮戦争で弾薬の輸送を行っているところらしい。資材節約の為トラス構造になった、デリックの組立式ブームなどの艤装がよく分かる。
奥に見えるトラス構造物は、旧呉海軍工廠の200tクレーンだろう。

辰清丸(戦時標準船2D型,Australian War Memorialより)
当時のハッチカバーの様子など。このように艙口に細長い木の板を何枚も掛け渡して蓋をし、最後に防水布をかけて縛る。

同上(Australian War Memorialより)
その他、AWMにある辰清丸関係の画像はこちら。
-***-
デリックによる荷役は独特で、ブームを固定したままワイヤーロープの巻き緩めだけで貨物を移動させる。ブームを振るクレーンを見慣れた目には違和感があるかもしれない。
奥に見えるトラス構造物は、旧呉海軍工廠の200tクレーンだろう。

辰清丸(戦時標準船2D型,Australian War Memorialより)
当時のハッチカバーの様子など。このように艙口に細長い木の板を何枚も掛け渡して蓋をし、最後に防水布をかけて縛る。

同上(Australian War Memorialより)
その他、AWMにある辰清丸関係の画像はこちら。
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デリックによる荷役は独特で、ブームを固定したままワイヤーロープの巻き緩めだけで貨物を移動させる。ブームを振るクレーンを見慣れた目には違和感があるかもしれない。
戦時標準船2A型の積載量について
戦時標準船2A型は6,600総トン(計画値)である。この総トン数(Gross Tonnage)は船の容積を示すもので、実際に積める貨物の重さではない。それを示すのは載貨重量トン数(Dead Weight Tonnage)である。

ではそれがいくらかというと、11,200載貨重量トンである。戦時造船史にはこれらの数字と並んで、平時満載貨物として10,114トンとの数字がある。1割の戦時増載込みということであろうか。
1945年(昭和20年)7月の伏木港(富山県)の入港船。戦後にGHQに提出したもののようだ。「7/16 DAIIKU 12,090」「7/18 EHIKO 11,899」がそれぞれ石炭1万トン強を搭載して入港したことになっている。

国立国会図書館デジタルコレクション - Port of Fushiki: Daily record of entry and clearance of ships, port of Fushiki(Japanese). : Report No. 54a(1)(a), USSBS Index Section 2 (コマ番号59/97より)
前者は大郁丸(大阪商船)、後者は英彦丸(日本郵船)で、いずれも戦時標準船2A型である。表の項目の総トン(GT)は、斜線で消されて載貨重量トン(DT)に訂正されている。2A型も満載で運航されていたのだな、と少し安心する。

ではそれがいくらかというと、11,200載貨重量トンである。戦時造船史にはこれらの数字と並んで、平時満載貨物として10,114トンとの数字がある。1割の戦時増載込みということであろうか。
1945年(昭和20年)7月の伏木港(富山県)の入港船。戦後にGHQに提出したもののようだ。「7/16 DAIIKU 12,090」「7/18 EHIKO 11,899」がそれぞれ石炭1万トン強を搭載して入港したことになっている。

国立国会図書館デジタルコレクション - Port of Fushiki: Daily record of entry and clearance of ships, port of Fushiki(Japanese). : Report No. 54a(1)(a), USSBS Index Section 2 (コマ番号59/97より)
前者は大郁丸(大阪商船)、後者は英彦丸(日本郵船)で、いずれも戦時標準船2A型である。表の項目の総トン(GT)は、斜線で消されて載貨重量トン(DT)に訂正されている。2A型も満載で運航されていたのだな、と少し安心する。
戦時標準船2A型の戦後
戦時標準船2A型、と言われてぱっと船容が思い浮かべられる人は少数だろう。何しろ残っている写真が少ない。2年ちょっとの間で120隻余も建造された筈なのに、日本で撮影された公試時の写真などの他にはこういうものがあるばかりである。

国破れて山河あり、日の丸商船隊失われて戦標船ばかり残り、という訳でもないが、残存したり引揚げられたりで50隻ほどの2A型が戦後再び就航している。海運界の復興に伴いやがて海外航路にも進出するが、入港先としてもあんまり危ない船に入ってきてもらうのはお断り、となるので、国際的に認められた船舶の安全規格に沿うよう改造工事をした上で日本から出すことになる。戦後盛んに実施された、戦時標準船の国際船級への入級工事がそれである。
敗戦により、戦前日本が持っていた国際船級であるNK船級の効力も海の藻屑となったので、戦後就航した2A型のうちおよそ2/3はアメリカのAB船級を取得した。この入級工事に際して三島型に改装されてしまったので、昔日の2A型の面影はない。船首と船尾周りにかすかにそれと思しき雰囲気が残っている。
![CVA 447-8482 - S.S. Tamon Maru No. 16 [at dock]](https://blog-imgs-93-origin.fc2.com/t/e/n/tensyofleet/201606202341336b3s.jpg)
S.S. Tamon Maru No. 16 [at dock] - City of Vancouver Archives
さて、この第十六多聞丸の5年ほど前の姿を見てみよう。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、1947/11/06(昭22)撮影のUSA-M631-58の一部、石川県七尾南湾の湾口付近。

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
真っ二つになりかけていたのを二つに切り離し、舞鶴まで曳航して繋ぎなおした記録が残っている。


CiNii 論文 - 第十六多聞丸結合工事
いつも空船状態の2A型しか見ていないので、船脚を深く沈めた姿に違和感を覚えたり、乾舷の低さにちょっと不安になったりもする。これで北太平洋横断するんだよな?(撮影地:バンクーバー)
![S.S. Enkei Maru E.O. 26 [at dock]](https://blog-imgs-93-origin.fc2.com/t/e/n/tensyofleet/b14ec006-e7a9-4b63-abae-7fe31753a53f-A39786s.jpg)
S.S. Enkei Maru E.O. 26 [at dock] - City of Vancouver Archives
先入観がある故になかなか信じて貰えないこともままあるが、あまり有名でない戦標船ならそんなこともないだろう。改装された戦時標準船2A型、輝山丸。売船に伴って泉丸と改名後の姿。

M.S. Izumi Maru - City of Vancouver Archives
ただでさえ船尾トリムが問題になった2A型を船尾船橋にして、操船に問題は生じなかったのだろうか。
このAB船級入級工事、政府が希望する船主に斡旋したらしく設計はほぼ同じらしいが、改装工事は複数の造船所で行っているので艤装に多少の差異がある。予備浮力が心配になるが、これほど荷を積んだ戦争中の写真は見たことがない。

S.S. Taikyu Maru - City of Vancouver Archives
なお、少なくとも一部の船は改装に当たってトランサムスターンを改めているが、理由はよく分からない。船尾の甲板面積の拡大と予備浮力の増大くらいしか思い当たらないが、案外「見た目」だろうか。
![CVA 447-7055.2 - S.S. Mukahi Maru [at dock]](https://blog-imgs-93-origin.fc2.com/t/e/n/tensyofleet/b8e0579d-6717-439e-9af4-016435c3e391-A44787s.jpg)
S.S. Mukahi Maru [at dock] - City of Vancouver Archives
戦時標準船2A型、とこの写真を示されて違和感を抱くのは見慣れている人だけかもしれない。よく見るとデリックのブームはトラス構造の省材型だし、キングポストは角断面で戦時中の建造に違いない。

S.S. Kyoshin Maru - City of Vancouver Archives
実はこの船、戦争末期に播磨造船所で起工され、戦時中に1隻しか完成しなかったちょっとレアな3TA型の1隻戸畑丸で、売船されて共進丸と改名後の姿。3TAは2A型を基本に機関出力を向上させた油槽船として戦争末期に計画されたが、南方航路の途絶により貨物船に改装されたもの。
改装されているものの、こちらが本来の2A型。遠州丸が売船された後の姿。
この写真、戦標船関係の某洋書の表紙に使われているもののようだ。

国破れて山河あり、日の丸商船隊失われて戦標船ばかり残り、という訳でもないが、残存したり引揚げられたりで50隻ほどの2A型が戦後再び就航している。海運界の復興に伴いやがて海外航路にも進出するが、入港先としてもあんまり危ない船に入ってきてもらうのはお断り、となるので、国際的に認められた船舶の安全規格に沿うよう改造工事をした上で日本から出すことになる。戦後盛んに実施された、戦時標準船の国際船級への入級工事がそれである。
敗戦により、戦前日本が持っていた国際船級であるNK船級の効力も海の藻屑となったので、戦後就航した2A型のうちおよそ2/3はアメリカのAB船級を取得した。この入級工事に際して三島型に改装されてしまったので、昔日の2A型の面影はない。船首と船尾周りにかすかにそれと思しき雰囲気が残っている。
![CVA 447-8482 - S.S. Tamon Maru No. 16 [at dock]](https://blog-imgs-93-origin.fc2.com/t/e/n/tensyofleet/201606202341336b3s.jpg)
S.S. Tamon Maru No. 16 [at dock] - City of Vancouver Archives
さて、この第十六多聞丸の5年ほど前の姿を見てみよう。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、1947/11/06(昭22)撮影のUSA-M631-58の一部、石川県七尾南湾の湾口付近。

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
真っ二つになりかけていたのを二つに切り離し、舞鶴まで曳航して繋ぎなおした記録が残っている。


CiNii 論文 - 第十六多聞丸結合工事
いつも空船状態の2A型しか見ていないので、船脚を深く沈めた姿に違和感を覚えたり、乾舷の低さにちょっと不安になったりもする。これで北太平洋横断するんだよな?(撮影地:バンクーバー)
![S.S. Enkei Maru E.O. 26 [at dock]](https://blog-imgs-93-origin.fc2.com/t/e/n/tensyofleet/b14ec006-e7a9-4b63-abae-7fe31753a53f-A39786s.jpg)
S.S. Enkei Maru E.O. 26 [at dock] - City of Vancouver Archives
先入観がある故になかなか信じて貰えないこともままあるが、あまり有名でない戦標船ならそんなこともないだろう。改装された戦時標準船2A型、輝山丸。売船に伴って泉丸と改名後の姿。

M.S. Izumi Maru - City of Vancouver Archives
ただでさえ船尾トリムが問題になった2A型を船尾船橋にして、操船に問題は生じなかったのだろうか。
このAB船級入級工事、政府が希望する船主に斡旋したらしく設計はほぼ同じらしいが、改装工事は複数の造船所で行っているので艤装に多少の差異がある。予備浮力が心配になるが、これほど荷を積んだ戦争中の写真は見たことがない。

S.S. Taikyu Maru - City of Vancouver Archives
なお、少なくとも一部の船は改装に当たってトランサムスターンを改めているが、理由はよく分からない。船尾の甲板面積の拡大と予備浮力の増大くらいしか思い当たらないが、案外「見た目」だろうか。
![CVA 447-7055.2 - S.S. Mukahi Maru [at dock]](https://blog-imgs-93-origin.fc2.com/t/e/n/tensyofleet/b8e0579d-6717-439e-9af4-016435c3e391-A44787s.jpg)
S.S. Mukahi Maru [at dock] - City of Vancouver Archives
戦時標準船2A型、とこの写真を示されて違和感を抱くのは見慣れている人だけかもしれない。よく見るとデリックのブームはトラス構造の省材型だし、キングポストは角断面で戦時中の建造に違いない。

S.S. Kyoshin Maru - City of Vancouver Archives
実はこの船、戦争末期に播磨造船所で起工され、戦時中に1隻しか完成しなかったちょっとレアな3TA型の1隻戸畑丸で、売船されて共進丸と改名後の姿。3TAは2A型を基本に機関出力を向上させた油槽船として戦争末期に計画されたが、南方航路の途絶により貨物船に改装されたもの。
改装されているものの、こちらが本来の2A型。遠州丸が売船された後の姿。
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この写真、戦標船関係の某洋書の表紙に使われているもののようだ。
戦時中の造船所
特2TL型山汐丸の戦後
Naval History and Heritage Commandより、1945年9月撮影の特2TL型山汐丸。同年2月17日、第58任務部隊艦上機による空襲で被爆着底したようだ。

着底した山汐丸(Naval History and Heritage Commandより)
沈没場所は横浜港内とあるので探してみたところ、どうやら現在の瑞穂埠頭であるらしい。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより、1946/03/09(昭21)撮影のUSA-M-68-A-6-1-3の一部を拡大したもの。

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
背後の防波堤の見え方からしてこの写真の中央やや下あたりにいた筈だが、米軍が埠頭を使用するに当たって邪魔だったのか、早々に浮揚されたらしくすでに姿は見えない。
ではどこにいるんだ、というと、ここにいる。同日撮影USA-M-68-A-6-1-29、今の山下埠頭と横浜ベイブリッジの間あたりだろうか。

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
ここで駆逐艦らしきものを挟んで右が、後に八戸港の沈船防波堤になる2TL富島丸/大杉丸/東城丸のいずれかと思われる。すぐ左が撮影日(この日付は怪しいが。。。)の3日前に漂流衝突して沈没した標的艦大指(未成)。その左の商船2隻は分からない。

浮揚後、横浜港内で係留中の山汐丸(船首側,Naval History and Heritage Commandより)

浮揚後、横浜港内で係留中の山汐丸(船尾側,Naval History and Heritage Commandより)
さて、浮揚後も係留されていた山汐丸であるが、当時全国各地で艦艇の解体が進められていた。GHQの指令の下、運輸省が最寄の造船所に浮揚・解体を命じ、スクラップは無償で払い下げるが解体費用は出さないというものだったらしい。命令を受けた三菱横浜造船所、割が悪いので浮揚後しばらく放置。
そんなある日の朝、山汐丸の船首がぽっきり折れて再び沈没してしまった。場所はここ(青矢印)、右側が船首であるが、間の悪いことに5つある船台のうちの2つを完全に塞いでしまっている。1947/07/24(昭22)撮影のUSA-M378-120より。

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
あまり関係ないが、この写真の中央上部には一等輸送艦が停泊中である。時期的に小笠原捕鯨に従事していたものであろうか、デッキハウスがあるように見受けられるので、一等輸送艦第9、13、16、19号のいずれの可能性もあると思われる。また、中央やや右で停泊中の船にはバウスプリットがあるように見え、あるいは帆船日本丸/海王丸かもしれない。
なお、現在この付近一帯はみなとみらい地区となっており、このやや南が現在帆船日本丸が保存されている場所になる。戦後70年を経て、周囲の変遷には目を見張るばかりである。
閑話休題、ただでさえ儲けが出ないのに、再浮揚となれば赤字は免れない。所長の鶴の一声で、塞がれた第一号第二号船台は地上組立場とし、第三号船台に干渉する船首部分は解体することに決したが、運輸省は航空母艦を岸壁にするのはもってのほか、やりたければ自力でGHQの許可を取ってこいとのこと。
これは普通のタンカーを改装したものである、などと色々説明したものの取り付くしまもない。結局、あらゆる角度から山ほど写真を撮って提出し、ようやく許可を取ったという。
こうして7号岸壁こと通称「山汐桟橋(岸壁)」は、昭和30年前後に埋め立てられるまでその姿を残していたようだ。1956/03/10(昭31)撮影のUSA-M324-233より。

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
-***-
ちょっと遡って山汐丸建造中の話。完成も近づき、艤装岸壁に繋がれて運転のため汽缶を点火しようとしたところ、風が吹くと煙突から吹き込む風に缶の送風機が負けてしまいどうしても点火できない。
仕方がないので、岸壁のクレーンで鉄板を煙突の前に吊って火をつけたという。風向きにもよるのであろうが、横向きの煙突も中々難しいということだろうか。同じ特TLのしまね丸の図面を見ると、同様に真横に出してはいるが途中から上に角度をつけており、開口部は上向きになっている。

山汐丸一般配置図(出典:戦時造船史(小野塚一郎著,S63今日の話題社))
-***-
なお、山汐丸が再びの沈没を遂げた頃の横浜港内には、後に八戸港の沈船防波堤になる2TLの富島丸/大杉丸/東城丸のうち2隻と思われる船が係留されている。1947/07/24(昭22)撮影のUSA-M378-127より、時期的にはちょうど沈船防波堤への改装工事中であろうか。残るもう1隻の2TLは、これと同日撮影である先のUSA-M378-120で三菱横浜の岸壁にいる。

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
八戸港の沈船防波堤―戦時標準船2TL型の戦後(本blog内記事)
-***-
戦時中陸軍が撮影したものか、1944/10/14(昭19)撮影の897-C8-107より。2TL玉栄丸がこの日竣工だが、第一号船渠右手桟橋に接岸中の船がそうであろうか。船台上にある2隻のうち、上側第四号船台ののっぺりした方は建造中の山汐丸ではないかと思っている。

-***-


保存されている山汐丸の錨と案内板(横浜市みなとみらい,2018年7月22日筆者撮影)

着底した山汐丸(Naval History and Heritage Commandより)
沈没場所は横浜港内とあるので探してみたところ、どうやら現在の瑞穂埠頭であるらしい。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより、1946/03/09(昭21)撮影のUSA-M-68-A-6-1-3の一部を拡大したもの。

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
背後の防波堤の見え方からしてこの写真の中央やや下あたりにいた筈だが、米軍が埠頭を使用するに当たって邪魔だったのか、早々に浮揚されたらしくすでに姿は見えない。
ではどこにいるんだ、というと、ここにいる。同日撮影USA-M-68-A-6-1-29、今の山下埠頭と横浜ベイブリッジの間あたりだろうか。

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
ここで駆逐艦らしきものを挟んで右が、後に八戸港の沈船防波堤になる2TL富島丸/大杉丸/東城丸のいずれかと思われる。すぐ左が撮影日(この日付は怪しいが。。。)の3日前に漂流衝突して沈没した標的艦大指(未成)。その左の商船2隻は分からない。

浮揚後、横浜港内で係留中の山汐丸(船首側,Naval History and Heritage Commandより)

浮揚後、横浜港内で係留中の山汐丸(船尾側,Naval History and Heritage Commandより)
さて、浮揚後も係留されていた山汐丸であるが、当時全国各地で艦艇の解体が進められていた。GHQの指令の下、運輸省が最寄の造船所に浮揚・解体を命じ、スクラップは無償で払い下げるが解体費用は出さないというものだったらしい。命令を受けた三菱横浜造船所、割が悪いので浮揚後しばらく放置。
そんなある日の朝、山汐丸の船首がぽっきり折れて再び沈没してしまった。場所はここ(青矢印)、右側が船首であるが、間の悪いことに5つある船台のうちの2つを完全に塞いでしまっている。1947/07/24(昭22)撮影のUSA-M378-120より。

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
あまり関係ないが、この写真の中央上部には一等輸送艦が停泊中である。時期的に小笠原捕鯨に従事していたものであろうか、デッキハウスがあるように見受けられるので、一等輸送艦第9、13、16、19号のいずれの可能性もあると思われる。また、中央やや右で停泊中の船にはバウスプリットがあるように見え、あるいは帆船日本丸/海王丸かもしれない。
なお、現在この付近一帯はみなとみらい地区となっており、このやや南が現在帆船日本丸が保存されている場所になる。戦後70年を経て、周囲の変遷には目を見張るばかりである。
閑話休題、ただでさえ儲けが出ないのに、再浮揚となれば赤字は免れない。所長の鶴の一声で、塞がれた第一号第二号船台は地上組立場とし、第三号船台に干渉する船首部分は解体することに決したが、運輸省は航空母艦を岸壁にするのはもってのほか、やりたければ自力でGHQの許可を取ってこいとのこと。
これは普通のタンカーを改装したものである、などと色々説明したものの取り付くしまもない。結局、あらゆる角度から山ほど写真を撮って提出し、ようやく許可を取ったという。
こうして7号岸壁こと通称「山汐桟橋(岸壁)」は、昭和30年前後に埋め立てられるまでその姿を残していたようだ。1956/03/10(昭31)撮影のUSA-M324-233より。

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
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ちょっと遡って山汐丸建造中の話。完成も近づき、艤装岸壁に繋がれて運転のため汽缶を点火しようとしたところ、風が吹くと煙突から吹き込む風に缶の送風機が負けてしまいどうしても点火できない。
仕方がないので、岸壁のクレーンで鉄板を煙突の前に吊って火をつけたという。風向きにもよるのであろうが、横向きの煙突も中々難しいということだろうか。同じ特TLのしまね丸の図面を見ると、同様に真横に出してはいるが途中から上に角度をつけており、開口部は上向きになっている。

山汐丸一般配置図(出典:戦時造船史(小野塚一郎著,S63今日の話題社))
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なお、山汐丸が再びの沈没を遂げた頃の横浜港内には、後に八戸港の沈船防波堤になる2TLの富島丸/大杉丸/東城丸のうち2隻と思われる船が係留されている。1947/07/24(昭22)撮影のUSA-M378-127より、時期的にはちょうど沈船防波堤への改装工事中であろうか。残るもう1隻の2TLは、これと同日撮影である先のUSA-M378-120で三菱横浜の岸壁にいる。

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
八戸港の沈船防波堤―戦時標準船2TL型の戦後(本blog内記事)
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戦時中陸軍が撮影したものか、1944/10/14(昭19)撮影の897-C8-107より。2TL玉栄丸がこの日竣工だが、第一号船渠右手桟橋に接岸中の船がそうであろうか。船台上にある2隻のうち、上側第四号船台ののっぺりした方は建造中の山汐丸ではないかと思っている。

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保存されている山汐丸の錨と案内板(横浜市みなとみらい,2018年7月22日筆者撮影)
ヘッセルマンエンジン―陸軍三式潜航輸送艇と木製大護衛艇(その2)
さて、「陸軍潜水艦」(土井全二郎,2010年光人社NF文庫)にヘッセルマンを積んだら海軍技術陣に褒められた、的な記述がある。しかし、これは当時の日本の置かれた状況を鑑みて、やむを得なければ即ち仕方がない、といったところで、やはりこれを積んだフネ作るのはダメな方向ではないかと思う。
先の木製大護衛艇には、350馬力ディーゼル2基搭載の甲と、160馬力ヘッセルマン2基搭載の乙がある。機関重量の計は甲3.7tに対して乙5.4tと重く、最大出力時の回転数は900rpmと1,000rpmで概ね同等。ヘッセルマンの馬力当たり重量が軽い、というのはどうやら「陸軍兵器総覧」(日本兵器工業会編,1977年図書出版)に記述されている谷口少佐の言が出典であろうと思われるが、何と比べてのものだろうか。
確かにヘッセルマンエンジンの特徴の一つとして、ディーゼルほど高圧縮比ではないので強度が必要なく、軽く作れるといえばそのとおりである。
また低速ディーゼルは重いのも事実で、海軍の駆潜特務艇に搭載された中型400馬力ディーゼルは本体だけで9.5tあるが、こちらの最大出力時の回転数は500rpmで発生トルクが倍以上違う。付け加えるなら、木製大護衛艇は当初戦標船2EのF5ディーゼル550馬力の計画だったが、これは29t近くあって重過ぎるとして後に取り止めている。
燃料消費率を見ても350馬力ディーゼルが190g/馬力/時、ヘッセルマンが240g/馬力/時と効率も劣る。もっとも、こちらは気筒の大きさの違いもあるだろうが。

基本計画(1)(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020287200より)
この木製大護衛艇の基本計画を見るに、「2」の350馬力ディーゼルはまるゆ2型の主機に2基2軸として採用予定のものと同じものらしい。まるゆ1型の2基タンデム1軸に比べて堅実な設計で、やはりヘッセルマンは使いたくて使ったものではないのだろう。
なお木製大護衛艇であるが、当初15ノットを発揮するために「1」のF5ディーゼルをこの第一次計画で選定したものの、先のとおり不経済であるとしてこの後の二次計画でまるゆ用として研究中の「4」の500馬力ディーゼル1基とし、最終計画で主機が「4」のディーゼルと「5」のヘッセルマンの二本立てとなり、最後に「4」のディーゼルはどうやら都合がつかずに「2」の350馬力2基となったらしい。
ついでにこの「2」の350馬力ディーゼルは、元をたどると陸軍の装甲艇(AB艇,文中一見『AD艇』だがよく見るとABと書いてある)に搭載されたもので、新潟鐵工所では機関形式T6YA/T6YB(シリンダ径235mm×行程270mm)として生産されている。これに過給器をつけて525馬力としたT6YBSが存在し、これが「3」かあるいは「4」の500馬力ディーゼルを指すのかもしれない。

5式木製大護衛艇(甲)取扱法(案)/附表(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020288600より)
先の木製大護衛艇には、350馬力ディーゼル2基搭載の甲と、160馬力ヘッセルマン2基搭載の乙がある。機関重量の計は甲3.7tに対して乙5.4tと重く、最大出力時の回転数は900rpmと1,000rpmで概ね同等。ヘッセルマンの馬力当たり重量が軽い、というのはどうやら「陸軍兵器総覧」(日本兵器工業会編,1977年図書出版)に記述されている谷口少佐の言が出典であろうと思われるが、何と比べてのものだろうか。
確かにヘッセルマンエンジンの特徴の一つとして、ディーゼルほど高圧縮比ではないので強度が必要なく、軽く作れるといえばそのとおりである。
また低速ディーゼルは重いのも事実で、海軍の駆潜特務艇に搭載された中型400馬力ディーゼルは本体だけで9.5tあるが、こちらの最大出力時の回転数は500rpmで発生トルクが倍以上違う。付け加えるなら、木製大護衛艇は当初戦標船2EのF5ディーゼル550馬力の計画だったが、これは29t近くあって重過ぎるとして後に取り止めている。
燃料消費率を見ても350馬力ディーゼルが190g/馬力/時、ヘッセルマンが240g/馬力/時と効率も劣る。もっとも、こちらは気筒の大きさの違いもあるだろうが。

基本計画(1)(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020287200より)
この木製大護衛艇の基本計画を見るに、「2」の350馬力ディーゼルはまるゆ2型の主機に2基2軸として採用予定のものと同じものらしい。まるゆ1型の2基タンデム1軸に比べて堅実な設計で、やはりヘッセルマンは使いたくて使ったものではないのだろう。
なお木製大護衛艇であるが、当初15ノットを発揮するために「1」のF5ディーゼルをこの第一次計画で選定したものの、先のとおり不経済であるとしてこの後の二次計画でまるゆ用として研究中の「4」の500馬力ディーゼル1基とし、最終計画で主機が「4」のディーゼルと「5」のヘッセルマンの二本立てとなり、最後に「4」のディーゼルはどうやら都合がつかずに「2」の350馬力2基となったらしい。
ついでにこの「2」の350馬力ディーゼルは、元をたどると陸軍の装甲艇(AB艇,文中一見『AD艇』だがよく見るとABと書いてある)に搭載されたもので、新潟鐵工所では機関形式T6YA/T6YB(シリンダ径235mm×行程270mm)として生産されている。これに過給器をつけて525馬力としたT6YBSが存在し、これが「3」かあるいは「4」の500馬力ディーゼルを指すのかもしれない。

5式木製大護衛艇(甲)取扱法(案)/附表(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020288600より)
ヘッセルマンエンジン―陸軍三式潜航輸送艇と木製大護衛艇(その1)
かつて、ヘッセルマンエンジンという内燃機関が用いられていた時代があった。スウェーデンのヨナス・ヘッセルマンの発明によるもので、1930年代に自動車用のほか、油田掘削用の動力としても用いられた。三式潜航輸送艇こと「まるゆ」の主機関としても、一部方面で有名であるかもしれない。
ヘッセルマンエンジンは、ガソリン機関とディーゼル機関を足して二で割ったような性格の機関で、利点としては低質油やガスを燃料とできること、欠点としては点火装置と噴射装置の両者が必要なことが挙げられる。
まるゆの方面から調べていくと、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13120848500、軍管区別兵器 製造設備能力分布状況表 昭和20.5(防衛省防衛研究所)の「舟艇の部」に、まるゆ(ヘッセルマン)発動機月産32台との記載がある。

舟艇の部,軍管区別兵器 製造設備能力分布状況表 昭和20.5(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13120848500より)
相模陸軍造兵廠15基/月の他、発動機製造(ダイハツ)、大阪金属工業(ダイキン)などの名前があるが、久保田鉄工所(クボタ)が0になっているのは3月の大阪空襲の影響だろうか。
ダイハツでは、昭和17年春に帝国石油から油田開発用機械の原動機として、ヘッセルマンエンジンを受注したとの記録がある。形式は6EKH、シリンダ径178mm×行程178mm、毎分回転数1,150で200馬力、重量は2,800kgと記されている。
また、ダイハツにはこのようなものも残っているようだ。
200馬力ヘッセルマン機関取扱説明書 6EKH-A(産業技術資料データベースより)
一方、このリストにはないが、新潟鐵工所が陸軍向けに南方油田さく井用として「統一型ヘッセルマン式H6SB形」160馬力(200馬力の記述もあり)を製作したとの記録がある。H6SBの要目を見ると、4サイクル6気筒でシリンダ径178mm×行程178mm、毎分回転数1,000となっている。
さく井用としては、噴出する天然ガスを燃料に利用できるヘッセルマンの利点が生かせたのだろう。なお、海軍向けのさく井機には115馬力ディーゼルを用いたらしい。
これらはまるゆ用のヘッセルマンを2基積んだ陸軍の「五式木製大護衛艇(乙)」の主機要目と出力以外は同じで、同一のエンジンと見てよいだろう。

5式木製大護衛艇(乙)取扱法(案)/附表(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020289300より)
なお、これら陸軍ヘッセルマンエンジンの原型はアメリカのワーケシャ"Waukesha"社が開発したもので、後にGEに買収されてガスエンジンのブランドとして今に残っている。
ワーケシャ・ガスエンジン
また、大護衛艇に積まれたヘッセルマンエンジンの写真が残っている。後に海軍でもヘッセルマンを航空基地の発電用に使用したようだ。

5式木製大護衛艇(乙)取扱法(案)/附図(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020289400より)

木製大護衛艇2型 写真集(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020289800より)
ヘッセルマンエンジンは、ガソリン機関とディーゼル機関を足して二で割ったような性格の機関で、利点としては低質油やガスを燃料とできること、欠点としては点火装置と噴射装置の両者が必要なことが挙げられる。
まるゆの方面から調べていくと、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13120848500、軍管区別兵器 製造設備能力分布状況表 昭和20.5(防衛省防衛研究所)の「舟艇の部」に、まるゆ(ヘッセルマン)発動機月産32台との記載がある。

舟艇の部,軍管区別兵器 製造設備能力分布状況表 昭和20.5(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13120848500より)
相模陸軍造兵廠15基/月の他、発動機製造(ダイハツ)、大阪金属工業(ダイキン)などの名前があるが、久保田鉄工所(クボタ)が0になっているのは3月の大阪空襲の影響だろうか。
ダイハツでは、昭和17年春に帝国石油から油田開発用機械の原動機として、ヘッセルマンエンジンを受注したとの記録がある。形式は6EKH、シリンダ径178mm×行程178mm、毎分回転数1,150で200馬力、重量は2,800kgと記されている。
また、ダイハツにはこのようなものも残っているようだ。
200馬力ヘッセルマン機関取扱説明書 6EKH-A(産業技術資料データベースより)
一方、このリストにはないが、新潟鐵工所が陸軍向けに南方油田さく井用として「統一型ヘッセルマン式H6SB形」160馬力(200馬力の記述もあり)を製作したとの記録がある。H6SBの要目を見ると、4サイクル6気筒でシリンダ径178mm×行程178mm、毎分回転数1,000となっている。
さく井用としては、噴出する天然ガスを燃料に利用できるヘッセルマンの利点が生かせたのだろう。なお、海軍向けのさく井機には115馬力ディーゼルを用いたらしい。
これらはまるゆ用のヘッセルマンを2基積んだ陸軍の「五式木製大護衛艇(乙)」の主機要目と出力以外は同じで、同一のエンジンと見てよいだろう。

5式木製大護衛艇(乙)取扱法(案)/附表(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020289300より)
なお、これら陸軍ヘッセルマンエンジンの原型はアメリカのワーケシャ"Waukesha"社が開発したもので、後にGEに買収されてガスエンジンのブランドとして今に残っている。
ワーケシャ・ガスエンジン
また、大護衛艇に積まれたヘッセルマンエンジンの写真が残っている。後に海軍でもヘッセルマンを航空基地の発電用に使用したようだ。

5式木製大護衛艇(乙)取扱法(案)/附図(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020289400より)

木製大護衛艇2型 写真集(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020289800より)
軍艦、鯨を獲る
時は日露戦争開戦前夜、1904年(明治37年)2月6日。陸軍韓国臨時派遣隊2,252名を乗せた運送船大連丸以下3隻は、第二艦隊第四戦隊の防護巡洋艦浪速、新高、高千穂の3隻に装甲巡洋艦浅間を加えた計4隻に護衛され、14時に佐世保を出港した。
この仁川上陸部隊を載せた輸送船団は、先頭から高千穂、浪速、新高と浅間、その後方に運送船が続く単縦陣を組んで航行していた。

極秘明治三十七八年海戦史(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110031800より)
その後、予定どおり途中で他の部隊との合流を果たして順調に航程を進めていたが、異変は翌7日の18時20分、朝鮮半島南西端の羅州群島にある七発島沖を航行中に発生した。先頭を航行していた高千穂が、何事か急に速力を落としたのである。

防護巡洋艦高千穂(出典:高千穂 (防護巡洋艦),Wikipediaより)
旗艦浪速の参謀森山少佐は、高千穂が減速したのを不審に思っていたところ、高千穂に信号旗が揚がって曰く「ワレクジラヲツク」。
森山少佐は信号旗の誤読ではないかと叱り付けたが、当直将校は信号書と首っ引きで解読し直し間違いないとのこと。では向こうが旗を間違えているのではないか、と発して曰く「クジラトハナニナルヤ」。
高千穂答えて曰く「クジラトハオオイナルサカナナリ」。浪速の艦橋では笑い声が上がったという。
鯨の横腹に刺さった高千穂の衝角は食い込んでなかなか取れず、後進をかけてやっと離脱したとのことであるが、この鯨が何であったかはよく分からない。予定の原速であれば高千穂の速力は10ノットであっただろうが、遊泳速度の遅いザトウクジラであろうか。
高千穂が鯨を轢いたこの一件、「極秘明治三十七八年海戦史」にも記述がある。

極秘明治三十七八年海戦史(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110031800より)
(資料出典)
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110031800、「極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻2」(防衛省防衛研究所)
この仁川上陸部隊を載せた輸送船団は、先頭から高千穂、浪速、新高と浅間、その後方に運送船が続く単縦陣を組んで航行していた。

極秘明治三十七八年海戦史(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110031800より)
その後、予定どおり途中で他の部隊との合流を果たして順調に航程を進めていたが、異変は翌7日の18時20分、朝鮮半島南西端の羅州群島にある七発島沖を航行中に発生した。先頭を航行していた高千穂が、何事か急に速力を落としたのである。

防護巡洋艦高千穂(出典:高千穂 (防護巡洋艦),Wikipediaより)
旗艦浪速の参謀森山少佐は、高千穂が減速したのを不審に思っていたところ、高千穂に信号旗が揚がって曰く「ワレクジラヲツク」。
森山少佐は信号旗の誤読ではないかと叱り付けたが、当直将校は信号書と首っ引きで解読し直し間違いないとのこと。では向こうが旗を間違えているのではないか、と発して曰く「クジラトハナニナルヤ」。
高千穂答えて曰く「クジラトハオオイナルサカナナリ」。浪速の艦橋では笑い声が上がったという。
鯨の横腹に刺さった高千穂の衝角は食い込んでなかなか取れず、後進をかけてやっと離脱したとのことであるが、この鯨が何であったかはよく分からない。予定の原速であれば高千穂の速力は10ノットであっただろうが、遊泳速度の遅いザトウクジラであろうか。
高千穂が鯨を轢いたこの一件、「極秘明治三十七八年海戦史」にも記述がある。

極秘明治三十七八年海戦史(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110031800より)
(資料出典)
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110031800、「極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻2」(防衛省防衛研究所)