禍福は糾える縄の如し―とある戦標2A型の最期とその乗組員達―

 fold3.com より、攻撃を受ける戦時標準船2A型。撮影場所や時期などは記されておらず、出典は第307爆撃隊の記録らしいが、この攻撃を行ったのが同隊かどうかは詳らかではない。

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 しかし、物好きも長く続けるとなんとなく分かるものである。応急油槽船2ATに分類される永享丸(日本郵船,6,984総トン,播磨相生建造)だろう。同船はミ19船団に加入してマニラからボルネオのミリに向かう途中の1944(昭和19)年10月14日0200頃、第三船倉右舷に被雷する。攻撃したのはUSS Dace(SS-24)であった。
 機関に損傷はなかったため航行は続けたものの、直径8メートルの大破孔からの浸水に排水作業が追い付かず、16日にブルネイ湾港にあるラブアン島ビクトリア港内に擱座させた。連合艦隊泊地のため、位置選定には手間取ったという。

 擱座した永享丸(推定)。10月22日、レイテに向かう第一遊撃部隊をここから見送ったのだろうか。
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 早々に種明かしをしてしまうと、何故判るかと言えば「そう書いてあるから」で、状況的にも符合するから、と言ったところだろうか。
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 同様にそう書いてあるので、第307爆撃隊の攻撃であることも分かる。擱座した永享丸の乗組員は修理も思うに任せぬまま船内の食料が尽き、連日の空襲に加えて12月8日の大空襲で至近弾数発を受けて機関室まで浸水し、ついに12月16日総員退船となった。

 被雷時に機関長が行方不明となったが、この時点で他の乗組員57人は全員生存していた。ブルネイからミリに向け、およそ200km弱をトラックと徒歩で移動したのが12月末。ついで700km余り離れたクチンに到着したのは、年明けて1月末であった。
 クチンにも日本への便船はなく、乗組員達はやむなく危険を承知で機帆船を借りてシンガポールを目指した。直線距離でおよそ700km、少なくとも4昼夜は要したのではなかろうか。機帆船がシンガポールにたどり着いたのは、2月9日のことであった。

 しかし、シンガポールでも便船は見つからなかった。上陸翌日の2月10日、北号作戦の帰途に就く戦艦伊勢への便乗は断られた(2/20呉着)。その一週間後、第二建川丸(戦標2TL)にも断られた(2/22仏印沖触雷沈没)。
 4名ほどは便乗ではなく「転乗」として飯野海運の永昭丸(戦標2TM)に乗船し、日本を目指した(3/1高雄港内被爆沈没,永享丸乗組員1名戦死)。日本郵船を退職して飯野海運に就職という形を取ったのか、あるいは郵船の身分のまま乗船したのだろうか。他の乗組員の中にも、履歴書を書いて海軍の運輸部などに就職した者があったらしい。

 それでも辛抱強く日本への便船を待っていた永享丸乗組員に、ようやく乗船の機会が巡ってきた。3月25日に出発する(日本郵船戦時戦史永享丸の項記述,実際には28日出港)日本郵船の貨客船に、便乗29名と乗務3名の計32名が運良く乗り込むことができた。

 一方で運の悪いことに、その船の名は阿波丸と言った。

 この32名は台湾沖で阿波丸と運命を共にした(4/1被雷沈没)が、シンガポールに残った永享丸乗組員は、およそ1年後に日本の土を踏むことができたという。

空襲を受けて炎上する輸送船

 fold3.comより、1944年1月16日ダイオール島(ラバウルの北西約200km)の西方で炎上する貨物船。上段はカタリナ5機の爆撃直後、下段はその8時間後にB-24から撮影されたものらしい。ハッチ上に複数の大発が搭載されている。

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 同日の沈没船を調べるに、春幸丸(大同海運,4,027総トン)ではなかろうかと思う。船橋前の門型キングポストと、前後マスト左右の煙管型通風筒がそれらしく見える。「日本商船戦時遭難史」によれば、沈没位置はS2°23′ E149°46′となっている。乗船者30名、船員20名戦死。
春幸丸(大同海運,4,027総トン)
春幸丸(大同海運,4,027総トン)(画像出典:川崎重工業株式会社社史)

ヒ86船団の最期(その2)

 引き続きヒ87船団。練習巡洋艦香椎の最後。一枚目遠くに擱座炎上している船舶が何隻か遠望できる。
80-G-300687 Japanese Cruiser KASHII
(出典:80-G-300687, Naval History and Heritage Command)

80-G-300683 Japanese Cruiser KASHII
(出典:80-G-300683, Naval History and Heritage Command)

80-G-300684 Japanese Cruiser KASHII
(出典:80-G-300684, Naval History and Heritage Command)

 これらに限らず、他にもヒ86船団を攻撃している際に撮影された写真はあり、またガンカメラの映像もあったりするが、色々眺めるにこの辺りかなぁ、という気がする。


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 先のヒ87船団の各船と同日同場所(11-10' N 108-50' E)での撮影となっている海防艦。キャプションでは35号か43号となっていて、確かに両方この日に沈んでいるけれど、ヒ86で沈んだのは23号と51号。
80-G-301337 Carrier Raids in the South China Sea
(出典:80-G-301337, Naval History and Heritage Command)

 35号は中央部に3発被弾、切断して沈没、43号は擱座後沈没。51号は艦尾に被弾沈没、23号は生存者なしで沈没状況不明。サタ05なら35号、ヒ86なら23号だが、”11-10' N 108-50' E"はサタ05の方に近いようでよく分からない。200km以上離れている筈だけれども。

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 同じく1945年1月12日、こちらは仏印サンジャック沖で沈没に瀕する球磨川丸(7,510総トン,東洋海運)。
NH 95787 Carrier raids off Indo-China, January 1945
(出典:NH 95787, Naval History and Heritage Command)

球磨川丸(7,510総トン,東洋海運)
(画像出典:東洋海運株式会社二十年史)

 東洋汽船から東洋海運への移籍に当たって改名された3隻のうちの1隻で、元の名は日洋丸。

ヒ86船団の最期(その1)

 1945年1月12日、擱座炎上する戦時標準船2A型。この日はヒ86船団が空襲を受けて壊滅した日で、船体の状況からみて大津山丸(三井船舶,6,859総トン)と思われる。
80-G-301338 Carrier Raids in the South China Sea
(出典:80-G-301338, Naval History and Heritage Command)

 同日、爆撃を受ける貨物船。船体前方にキングポスト2本が特徴だが、 戦時標準船K型の辰鳩丸(辰馬汽船,5,396総トン)だろうか。日本鋼管鶴見建造のK型の写真を見たことがないので、特定し難い。
80-G-301330 Carrier Raids in the South China Sea
(出典:80-G-301330, Naval History and Heritage Command)

 同じく、擱座炎上する戦時標準船2TL型の極運丸(極洋捕鯨,10,045総トン)
80-G-300689 Japanese Tanker
(出典:880-G-300689, Naval History and Heritage Command)

 同じく1945年1月12日、擱座した2隻の輸送船。キャプションでは奥の燃えている船が2,500t、手前が4,500tということになっているけれども。。。
80-G-301336 Carrier Raids in the South China Sea
(出典:80-G-301336, Naval History and Heritage Command)

 船型と状況から見るに、共にヒ86船団で手前が平時標準船C型の昭永丸(大阪商船,2,764総トン)で、奥が第六十三播州丸(西大洋漁業,533総トン)か優清丸(東京都屎尿運搬船,600総トン)ではないだろうか。奥は前者の可能性が高いと見るけれども。
 「播州丸」は大洋漁業でよく運搬船に命名されるが、第六十三播州丸は三菱下関建造の戦時標準型漁船ト型(トロール船)で、船首部マストの形状からこちらの方の可能性が高いように思う。
トロール船利根丸(535総トン,日本水産,戦標漁船ト型(続行船))
トロール船利根丸(535総トン,日本水産,戦標漁船ト型(続行船))(画像出典:日本水産の70年)

 別の角度から。
NH 95605 Carrier raids in the South China Sea, January 1945
(出典:NH 95605, Naval History and Heritage Command)

 こちらにヒ86船団に所属していたさんるいす丸戦闘概報の一部が掲載されており、各船の擱座位置略図を見るに、やはり昭永丸と第六十三播州丸ではないかと思われる。
 

【ヒ86船団所属船】
極運丸(極洋捕鯨,10,045総トン):戦時標準船2TL型
さんるいす丸(三菱汽船,7,268総トン):在来型油槽船
大津山丸(三井船舶,6,859総トン):戦時標準船2A型改造油槽船
昭永丸(大阪商船,2,764総トン):平時標準船C型改造油槽船
永万丸(日本郵船,6,968総トン):戦時標準船2A型
予州丸(宇和島運輸,5,711総トン):在来型貨物船(ex-SS Niels Nielson, Skinner & Eddy)
辰鳩丸(辰馬汽船,5,396総トン):戦時標準船1K型
建部丸(大阪商船,4,519総トン):平時標準船B型
第六十三播州丸(大洋漁業,533総トン):戦時標準型漁船ト型(トロール船)
優清丸(東京都,600総トン):在来船(屎尿運搬船)

第21次ウェワク輸送船団

 fold3.com より、ニューギニア方面でA-20の反跳爆撃を受ける輸送船。「船舶砲兵」(駒宮真七郎,S52出版共同社)の表紙カバーに用いられたりでわりと知られている写真ではないかと思うが、裏書きに鉛筆で1944年3月19日とある。この日に空爆で沈んだ輸送船は2隻いる。

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 大阪商船の八雲丸(3,198総トン)と栗林商船の大永丸(3,238総トン)がそれで、大きさも似ているが、形も似ていてよく分からない(八雲丸はストックボートの同型船)。キセル型吸気筒の長さ・配置と、武装の程度から大永丸ではないかと思う。
大永丸(栗林商船,3,238総トン)
大永丸(栗林商船,3,238総トン)(画像出典:三井造船株式会社三十五年史)

八雲丸(大阪商船,3,198総トン)
八雲丸(大阪商船,3,198総トン)(画像出典:石川島重工業株式会社108年史)

 一方、こちらはあまり知られていないと思うが、裏書きによれば同一日撮影のもの。船首の砲台や煙突後方の構造物から、先の写真と同一船舶(大永丸)と思われる。機関室左舷に反跳爆撃の直撃弾を受けたらしく、船橋も崩壊している。
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 撮影時刻は前後するが、デリックの状況などからこちらも同一船舶を撮影したものと考えられる写真。
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 攻撃した側もどうやら大永丸だと考えているらしく、こちらの書籍にこの一連の写真と共に、攻撃を行った搭乗員の回想が記載されている。


-***-

 同じく1944年3月19日撮影、ウエワク付近で爆撃を受ける輸送船。裏書きより輸送船2、護衛艦艇3で、第21次ウェワク輸送船団の帰途と思われる。つまり、先の写真の輸送船とこの写真の輸送船が、それぞれ八雲丸と大永丸のいずれか。
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 こちらはどうもB-24の水平爆撃で被弾しているようだ。

 この船団に攻撃を加えたうちの一つ、第823爆撃飛行隊の報告書。1隻しか船が出てこないことから、時間的に後で沈没した大永丸の方だろうか。
1944-06
(出典:1944-06(PDF), the 38th Bomb Group Association

Home of the 38th Bomb Group Association
 -folder 823rd AFHRA Documents

輸送船時代の練習帆船日本丸

 AWMより、帆装を撤去して輸送船となっていた時代の練習帆船日本丸。場所はおそらく呉、時期は1950年とあり、舷側にSCAJAP No.が見える。

HOBJ0247,Australian War Memorialより
接岸中の日本丸(広島県呉市,Australian War Memorialより)

 日本丸と海王丸は昭和18年1月23日、横浜の浅野船渠へ入渠、すべてのヤードと1・2番船倉の固定バラストを陸揚げしている。撤去したヤードは浅野船渠隣の市営市場の片隅に保管されていたが、空襲で被弾して若干の損傷を受けた。終戦後の帆装復旧時に鋼製ヤードは使用に耐えるものと判定され、再び両船のマストに装備されている。

 一方、練習帆船大成丸はこれに先立つ昭和17年秋、三菱横浜造船所ですべてのヤードとゲルンマスト以上のマストを取り外し、固定バラストも陸揚げしている。このとき撤去されたマストとヤードは横浜の灯台局構内に保管されていたが、昭和20年10月に大成丸が神戸沖で触雷沈没後、昭和26年になって日本丸の帆装復旧に際して転用が計画されたが、使用不能と判定されて破棄されている。
 日本丸の帆装が復旧なったのは昭和27年5月、海王丸のそれは昭和30年12月であった。

HOBJ0248,Australian War Memorialより
同上(Australian War Memorialより)

 この時期の日本の練習帆船は、建造こそ国内の造船所であったが、設計は英国のラメージ・アンド・ファーガッソン社の手によるものであった。
 回想などをみるに、日本丸はどうも資金面から当初計画の270フィートから船型が縮小(船首部で10フィート短縮)されたにも関わらず、帆装図面は当初計画を若干手直ししただけで送られてきたらしく、担当者は改修に相当苦労したようだ。これがR&F社が手抜きをしたのか、発注元の文部省に問題があったのかは分からない。

HOBJ0246,Australian War Memorialより
同上(Australian War Memorialより)

 終戦後から帆装復旧に至るまで、日本丸と海王丸は引揚者の帰還輸送、そして朝鮮戦争勃発時には日本-韓国間の米国・韓国軍人の特殊輸送にも従事している。日本丸がこの特殊輸送に従事したのは昭和25年の夏以降なので、あるいはこの写真はそれに近い時期かもしれない。

呉のLADY SHIRLEY

 Australian War Memorialより、旧海軍の飛行機救難船。奥に旧呉海軍工廠の200tクレーンが見えることから場所は呉、"LADY SHIRLEY"の名でイギリス連邦占領軍が交通船として使用していた、200トン型の公称1091号だろう。のち海上保安庁巡視船むらちどり。

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"LADY SHIRLEY"(旧海軍200トン型飛行機救難船1091号,Australian War Memorialより)

日本本土のセンチュリオン戦車

 Australian War Memorialより、国鉄の操重車(ソ31,広島駅常備)でセンチュリオン戦車を吊り上げ中。当時、中国・四国地方に駐留していたイギリス連邦占領軍が装備していたもの。ソ30形の吊り上げ能力は最大65t、センチュリオンは50t余の筈である。

148313,Australian War Memorialより
ソ31で吊り上げ中のセンチュリオン戦車(Australian War Memorialより)

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同上(Australian War Memorialより)

 1953年1月20日、場所は"Hiro"とあるので、広海軍工廠のあった広島県呉市の広だろう。シキ100に積んで"Haramura"に運ぶらしいが、広島の原村演習場であろうか。
 シキ100形は80tまで搭載可能だが、車両限界は大丈夫だったのだろうか。見たところ貨車からはさほどはみ出していないようだが、センチュリオンの全幅は3.4mほどある筈で、若干超過するように思う。

148317,Australian War Memorialより
シキ100に搭載されたセンチュリオン戦車(Australian War Memorialより)

キスカ島残照

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 fold3.comより、砂浜に埋没する大発。状況から見てキスカ島、後ろで擱座している貨物船は野島丸(日本郵船,7,190t)だろう。

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 同じくキスカ島で爆撃を受ける貨物船。倉口の配置からしてぼるねお丸(大阪商船,5,863t)だろう。こちらもすでに擱座後のように見受けられる。

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 爆撃を受けるキスカ湾。上の方にいる輸送船は浦塩丸(川崎汽船,3,110t)だろう。野島丸が座礁後であれば、爆弾が着弾している付近ではないかと思う。
 有名な特殊潜航艇の基地は、先の写真下の方、桟橋と思しき細長い構造物のやや下に見える溝状の場所ではなかろうか。

 なお、ぼるねお丸はgooglemapでもその残骸が確認できる。



 野島丸と浦塩丸は、残念ながらgooglemapでは解像度の低い場所にかかっており確認できないが、現地で撮影された写真が登録されている。

野島丸 / 浦塩丸 -Google Maps

陸軍特殊船あきつ丸(改装前)

 fold3.comより、撮影日時不明、ニューブリテン島のどこかで撮影されたもの。キャプションに記載はないが陸軍特殊船あきつ丸の改装前の姿で、飛行甲板前縁が改装後より前に出てるように見える。

 ラバウル第1回目入港時(1942年12月1日)に撮影された、とされているのがこれだろうか。

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Author:天翔

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ほとんどチェックしていないので、コメント等への反応は保証できません。。。まあもしそんなものがあれば、の話ですが。

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