戦後日本の飛行船事始

 第二次世界大戦後に飛行船が初めて日本の空を飛んだのは、1968年9月のことであった。登録記号JA1001となった軟式飛行船「飛龍号」は、その愛称「キドカラー号」の方がより有名であろう。

 飛行船キドカラー号(出典:日広通信社より)

 日本海軍飛行船隊が1932年10月に訓練を中止して以来、36年ぶりに日本の空に登場したこのGood Year社製の軟式飛行船は、1943年7月にアメリカ海軍の練習用飛行船として竣工したL級の1隻(L-19)であった。
Photo #: NH 53294 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942,Naval History & Heritage Commandより
ドーリットル空襲前に補給を行うL級飛行船L-8(出典:Photo #: NH 53294 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942Naval History & Heritage Commandより)

L級の要目は全長45.0m、気嚢直径12.1m、星型7気筒空冷145hp×2、巡航速力74km/h、乗員2~4名、航続距離880kmで、1942年から翌年にかけてL-4~22の19隻が建造されている。
 なお、L-19は飛行船乗員の訓練に従事していた1944年11月、着陸の際の事故でエンジンと着陸脚を破損し、森に不時着する事故を起こしている。

 ちなみに先の写真のL-8は、訓練飛行中原因不明の理由で乗員2名が行方不明になり、無人となって漂っているところを発見されている。

 L-19は1947年に気嚢を新製交換、1951年まで各種試験飛行に従事した後、1952年には不稼動となった。そして1955年、西ドイツに売却されて"D-LAVO"と命名され、宣伝飛行に従事することになる。

Goodyear Blimp TZ123000, D-LAVO, Friedrich Schwab and Co. KG(出典:Air-Britain Photographic Images Collectionより)

 ドイツの空を飛行船が飛んだのは、1939年8月にグラーフ・ツェッペリンⅡが飛行して以来、およそ16年ぶりのことであった。1,700時間の飛行の後1959年に再度気嚢を新製交換し、その後10年間で6,000時間以上の飛行を行っている。
 なお、どうもこの期間水素を充填して飛んでいたフシがある。

 そして先述のとおり、旧L-19はドイツに続いて日本でも、飛行船復活飛行第一号船となったのであった。

 「キドカラー号」の日本での活躍期間は短かった。1969(昭和44)年4月4日夜、徳島の津田海岸埋め立て地で係留中に強風に煽られて制御不能となり、浮揚ガスの緊急放出が行われ、再建されることなく登録が抹消されている。千葉の航空科学博物館に、同船のエンジンだけが保存されている。

全木製硬式飛行船の系譜(その3)

 第一次世界大戦時に硬式飛行船を運用していたイギリスも、ドイツのシュッテ=ランツ社から亡命してきた技術者の主導の下、R31・R32と2隻木製飛行船を建造している。

R31(The Airship Heritage Trustより)
R31(出典:The Airship Heritage Trustより)

 HMA R31の竣工は休戦協定締結直前の1918年11月となったが、この型は操縦室の後方に対Uボート用として12ポンド半自動砲を搭載していたことが特筆される。構造材にはスプルース(トウヒ)が用いられており、ニスを塗って耐火性を持たせていた。
 なお、試験飛行では、船体下部の竜骨両端に立った乗員の姿が互いに見えなくなるくらい船体がたわむことが分かったが、特に問題とはされなかったようだ。

R31(The Airship Heritage Trustより)
建造中のR31(出典:The Airship Heritage Trustより)

 試験飛行を終えたR31は、彼女の基地となるスコットランドのイーストフューチャーに向かう飛行中、縦舵の舵面に張られたキャンバス製の外皮が剥離して操縦が困難となり、ヨークシャーのホーデンに着陸して修理を行なった。

 その5日後に戦争は終わり、R31はそのまま格納庫で待機状態となる。不幸なことに、この格納庫はその直前に発生した火災で屋根を失っていた。応急的な修理は施されていたものの、雨漏りはR31の木質構造材と、その接着に用いられていた接着剤に致命的な損傷を与えることになる。

 強力な合成系接着剤の無かった当時、木質構造材の接着にはおそらく牛乳タンパクから抽出された、カゼイン系の天然系接着剤が用いられていたと思われる。この接着剤は、湿度100%の実験室環境下では24時間でほぼ100%剥離するものである。
#ちなみに、このカゼイン系接着剤は、第二次世界大戦時の木製機、デ・ハビランド モスキートにも使用されている

 R31の廃棄が決定され、解体時に発生した廃材は燃料業者に薪として売却された。総飛行時間は9時間に満たず、任務飛行時間はわずか4時間55分であった。
 なお、後に燃料業者は顧客からの猛烈な苦情を受けることになる。先述のとおり、R31の木質構造材には強力な不燃処理が行なわれていたからである。

 姉妹船R32の完成は戦後の1919年となり、アメリカ飛行船隊の乗員の訓練に用いられたが、資金的な問題から1921年に解体された。総飛行時間はわずかに210時間余りであった。

R32(The Airship Heritage Trustより)
R32(出典:The Airship Heritage Trustより)

全木製硬式飛行船の系譜(その2)

 あまり知られていないことだが、フランスも硬式飛行船を建造している。1913年、現在は軍用ゴムボートメーカーとして有名なZodiac社が建造したフランス初の硬式飛行船は、全長113m、直径13.5mの木構造だった。
 設計者の名前を取って"SPIESS"と名付けられたこの飛行船は、その後、船体延長などの改修を受けつつ数回飛行したようだが、1914年8月の世界大戦勃発を受けてか、同年12月に解体されている。

SPIESS(Wikipedia(en)より)
SPIESS(出典:Wikipedia(en)より)

 Zodiacの創業者の姓が"Mallet(木槌)"なのは、この飛行船が木製なことと何か関係があるだろうか(ありません) なお、大戦中Zodiac社は気球や軟式飛行船の建造に注力している。

Zodiac(Wikipedia(en)より)
ZodiacIII(出典:Wikipedia(en)より)

 以後フランスは、大戦終了後にドイツからツェッペリン飛行船LZ114を戦争賠償として獲得するまで、硬式飛行船を運用することはなかった。この飛行船は"Dixmude(ディスミュド)"と命名されたが、後に地中海上空で嵐の中を飛行中行方不明となり、フランス硬式飛行船の短い歴史はここで終わっている。

LZ114,Dixmude(Wikipedia(de)より)
exLZ114, Dixmude(出典:LZ 114,Wikipedia(de)より)

全木製硬式飛行船の系譜(その1)

 WW1時ドイツは最大で全長200m近い木製の硬式飛行船を、20隻以上実戦配備していた。建造はSchutte-Lanz(シュッテ=ランツ)社で、船体の空力設計などでは有名なZeppelin社を上回る先進性を見せている。

SL2(Wikipediaより)
SL2(出典:シュッテ=ランツ,Wikipediaより)

 Zeppelin社製飛行船に用いられていたジュラルミンに比して、木材それ自体の強度は(試験室レベルでは)決して劣るものではなかったが、当時強力な合成接着剤がなかったこともあって、船体構造の脆弱性が問題になった

SL1骨格(Wikipediaより)
SL1骨格,本船のみ大圏構造(出典:シュッテ=ランツ,Wikipediaより)

 飛行船乗員からは"ニカワ壷"なるあだ名を頂戴していたようだ。Schutte-Lanz社も、後にジュラルミン製の飛行船を建造することになるが、その第1船が就役する前に終戦を迎えることになる。
 なお、構造材として用いられた木材の樹種はアスペン(Aspen,ヤマナラシ - Wikipedia)で、近似種が中国製の割り箸に用いられている。

第一次世界大戦におけるドイツ飛行船の英本土爆撃

 第一次世界大戦においてドイツ飛行船が英本土爆撃を行っていたことは周知の事実であると思う()が、当時の飛行船の爆弾搭載量はどれほどのものであったのだろうか。

L71(Zeppelin; the story of a great achievementより)
L71 at Friedrichshafen(出典:Zeppelin; the story of a great achievementより)

 この爆撃行に出撃した飛行船の最大搭載量の記録は、1916年9月23日夜のL30(海軍所属)によるもので、その内訳は4発の300kg爆弾、40発の58kg爆弾、そして60発の11kg焼夷弾、合計4.2tであった。

1916年4月、ツェッペリン飛行船が投下した爆弾(Wikipedia(en)より)
1916年4月、ツェッペリン飛行船が投下した爆弾(出典:Zeppelin,Wikipedia(en)より)

 その後、英本土の防空体制の充実によって、ドイツ飛行船はその搭載量を代償として最大上昇限度を獲得せざるをえなくなり、戦争後期にはかえって爆弾の搭載量が減少している。

 とはいえ、1918年8月5日の夜、最後の英本土爆撃に出撃したドイツ海軍飛行船隊の5隻は、いずれも2.5~3.5tの爆弾を搭載していた。

L70(Zeppelin; the story of a great achievementより)
L70 at Friedrichshafen(出典:Zeppelin; the story of a great achievementより)

 もっとも、それが全長211.5m/直径24.0m/気嚢容積62,200m^3/最大速度131km/h/乗員18名(L70)の巨体に見合ったものかと言えば、その後の戦争の歴史が証明しているところであろう。

英国海軍飛行船―HMA No.1 "Mayfly"

 英国において"HMS (His/Her Majesty's Ship)"を冠する艦船を「英国軍艦○○」と和訳するのはよく見かけるが、"HMA"は何と訳するのが適当であろうか。His Majesty's Airship、英国海軍が建造した硬式飛行船に冠されたものである。

 1911年、ドイツのツェッペリン伯爵が初飛行を成功させたLZ1に遅れること11年にして、英国海軍初の硬式飛行船が完成した。その名もHMA No.1,英国海軍飛行船第一号―この簡素な制式名だけではなく、彼女はより一般的な愛称も持っていた―"Mayfly"である。

HMA No.1(Wikipediaより)
HMA No.1 "Mayfly"(出典:HMA No.1,Wikipediaより)

 これを「カゲロウ」と訳すべきか、「飛ぶかもしれない」と訳すべきかは迷うところ(!)であるが、これが英国流のジョークという奴なのだろうか。。。
 1911年5月22日、HMA No.1の記念すべき初飛行となるはずだった試験飛行は失敗に終わった。重すぎて浮揚できず、3tあまり軽量化してようやく1.2mほど浮かんだようだ。同年9月24日に、再び試験飛行が実施されることになった。

HMA No.1(Wikipediaより)
9月24日、格納庫から引き出されるNo.1(出典:HMA No.1,Wikipediaより)

 結論から言うと、この日も"Mayfly"は空を飛ぶことはなかった――そして、この日以降も永遠に。格納庫から引き出している最中に突風に煽られ、真ん中でポッキリ折れてしまったからである。

HMA No.1(Wikipediaより)
同日船体折損を起こしたNo.1(出典:HMA No.1,Wikipediaより)

 ちなみに、どちらの意味でもまさにうってつけとなってしまった"Mayfly"という愛称は、この事故の前からすでに付けられていたようである。個人的には、5月(May)の初飛行に失敗したあたりで、誰かが皮肉ったのがそのまま現実となってしまったのではないかと考えている。

第一次世界大戦初頭のドイツ海軍飛行船部隊

 第一次世界大戦におけるドイツ海軍飛行船隊の、ユトランド沖海戦までの就役状況をまとめてみた誰得データ。青線は開戦、赤線がドッガー・バンク海戦とユトランド沖海戦。

WW1独海軍飛行船就役状況

 保有1隻でWW1に突入するドイツ海軍飛行船隊ェ。。。

アメリカ海軍飛行船部隊(その2)

N級飛行船

 ところで、第二次世界大戦後もアメリカ海軍は飛行船部隊を運用していた。新型のレーダー、ディッピングソナーなどの新たな装備に加え、滞空時間の延長も求められたため、より大型のN型が建造されることになった。
 1951年にN-1が進空、引き続き4隻の改良型が進空する。名称変更のごたごたがあって、これらはZPG-2と呼ばれることになる。

 ここで、飛行船に新たな任務を与えようという動きがあった。1955年のことである。

 改修を受けたZPG-2Wは、気嚢頂部にAN/APS-69、操縦室下部にAN/APS-20、船体内部にAPS-70を搭載し、北アメリカの早期警戒レーダー網、コンティギュオス・バリアーとインショアー・バリアーの間隙を埋める用途に投入された。早期警戒飛行船の誕生である。

 1957年3月、1隻のZPG-2Wが燃料補給なしで飛行距離15,675km、飛行時間264.2時間を達成し、飛行船の滞空記録を樹立した。戦前に世界一周飛行を達成した硬式飛行船LZ127グラーフ・ツェッペリンの無着陸飛行記録は、世界一周途上のフリードリヒスハーフェン-霞ヶ浦間の11,233kmで、これを上回る。

 そして1958年、新型のZPG-3Wが進空する。全長123m/気嚢直径26m/ライトR-1820サイクロン1,575hp2基/最大速度152km/hの性能を誇る史上最大の軟式飛行船であり、この記録も破られていない。

ZPG-3W級飛行船他

 手前からZPG-3W、ZPG-2W、そしてK型。エンジンナセル下の人影と比べると、そのサイズが分かるだろう。搭載しているライトR-1820サイクロンは、B-17のエンジンでもあった。
 ZPG-3Wの気嚢内には、全幅12.8 mのAN/APS-70早期警戒レーダーが搭載されている。

ZPG-3W級飛行船
ZPG-3W(出典:Naval Airship Associationより)

 なお、”重航空機”に同じAN/APS-70を積むとこうなるらしいのであるが、未だ空気より重いものが空を飛ぶということを信じられないのでよく分からない。 >>WV-2E(Wikipedia)

 SAGEシステムの一端を担った早期警戒飛行船の任務も、固定翼機の航続距離・滞空時間の延伸とともに終わりを告げた。アメリカ海軍飛行船部隊が最後の飛行を行ったのは、1962年8月31日のことであった。

画像出典:Kite Balloons to Airships...the Navy's Lighter-than-Air Experience

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 ところがどっこい、飛行船は死しても皮を残していた。1980年、アメリカ森林局が木材搬出用として垂直離着陸機の開発契約をアメリカ海軍と結んだ。"Helistat "と呼ばれる飛行機械に用いられたのは、ZPG-2Wの気嚢だった。
 パイアセッキ PA-97と命名されたハイブリッド飛行船は、4機のヘリコプター(H-34J,シコルスキーS-58の米海軍方)と結合された、世界最大の垂直離陸航空機となった。

 パイアセッキ PA-97 - Wikipedia

 1986年4月26日に初飛行を迎えたものの、7月1日に事故で墜落して死者1名を出し、開発計画は中止された。墜落時の映像が残されている。

アメリカ海軍飛行船部隊(その1)

船団護衛中のK級飛行船

 第二次世界大戦中、アメリカ海軍は軟式飛行船を用いた作戦を行っていた。第1から第5までの飛行船航空団("Fleet Airship Wing")を擁し、主として対潜哨戒、救難などに従事していた。 公式な戦果としては、潜水艦撃沈1(共同)及び撃破3とさほど目を引くものではないが、西と東の両大洋における作戦飛行回数は3万6千回、作戦飛行時間は41万時間に及ぶ。

アメリカ海軍軟式飛行船各型

 これらの作戦に用いられた軟式飛行船の主力は130隻余のK級であり、小型のL級(22隻)/G級(10隻)は訓練に用いられた。最も大型のM級は4隻のみの建造である。
 一方で飛行船の喪失はL級2隻、G級1隻、K級34隻に及ぶ。喪失原因としては、人的要因が21隻、以下設計に起因するもの13、材料に起因するもの1、不明1、そして敵による被撃墜が1であった。この第二次世界大戦を通じて、アメリカ海軍飛行船部隊が被った、ただ1隻の戦闘損失がK-74である。

工場従業員の前でお披露目されるK-74

 1943年7月18日深夜、アメリカ海軍第3飛行船航空団第22哨戒飛行船隊に所属していたK-74は、日付が変わらんとする直前に、レーダーによって潜水艦を探知した。
 場所はフロリダ海峡で、探知された潜水艦はU-134であった。K-74は直ちに攻撃に入ったものの、乗員の設定ミスで爆弾は投下されなかった。U-134は55ktで爆撃針路に入ったK-74に対して2cm機関砲による対空射撃を行い、これを撃墜している。

戦闘中のK-74とU-134(絵画)

 一方、K-74も100発程度の.50口径機銃弾をU-134に叩き込んでおり、これがなんらかの損傷を与えたようだ。帰途に就いたU-134は、およそ1ヵ月後の1943年8月24日、スペイン沖で撃沈されてK-74の仇は討たれた。

攻撃を受けるU-134(Wikipediaより)

 撃墜されたK-74の乗員は、墜落時点では全員が生存していたが、救助を待つ間に鮫に襲われて航空機関士が死亡しており、これがアメリカ海軍飛行船隊唯一の戦闘行動による死者となっている。

この戦闘の報告書

K級飛行船の爆弾と機銃の搭載位置

画像出典:Kite Balloons to Airships...the Navy's Lighter-than-Air Experience
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