軍艦、鯨を獲る

 時は日露戦争開戦前夜、1904年(明治37年)2月6日。陸軍韓国臨時派遣隊2,252名を乗せた運送船大連丸以下3隻は、第二艦隊第四戦隊の防護巡洋艦浪速、新高、高千穂の3隻に装甲巡洋艦浅間を加えた計4隻に護衛され、14時に佐世保を出港した。

 この仁川上陸部隊を載せた輸送船団は、先頭から高千穂、浪速、新高と浅間、その後方に運送船が続く単縦陣を組んで航行していた。

極秘明治三十七八年海戦史
極秘明治三十七八年海戦史(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110031800より)


 その後、予定どおり途中で他の部隊との合流を果たして順調に航程を進めていたが、異変は翌7日の18時20分、朝鮮半島南西端の羅州群島にある七発島沖を航行中に発生した。先頭を航行していた高千穂が、何事か急に速力を落としたのである。

高千穂 (防護巡洋艦)
防護巡洋艦高千穂(出典:高千穂 (防護巡洋艦),Wikipediaより)

 旗艦浪速の参謀森山少佐は、高千穂が減速したのを不審に思っていたところ、高千穂に信号旗が揚がって曰く「ワレクジラヲツク」。

 森山少佐は信号旗の誤読ではないかと叱り付けたが、当直将校は信号書と首っ引きで解読し直し間違いないとのこと。では向こうが旗を間違えているのではないか、と発して曰く「クジラトハナニナルヤ」。

 高千穂答えて曰く「クジラトハオオイナルサカナナリ」。浪速の艦橋では笑い声が上がったという。

 鯨の横腹に刺さった高千穂の衝角は食い込んでなかなか取れず、後進をかけてやっと離脱したとのことであるが、この鯨が何であったかはよく分からない。予定の原速であれば高千穂の速力は10ノットであっただろうが、遊泳速度の遅いザトウクジラであろうか。

 高千穂が鯨を轢いたこの一件、「極秘明治三十七八年海戦史」にも記述がある。

極秘明治三十七八年海戦史
極秘明治三十七八年海戦史(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110031800より)

(資料出典)
 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110031800、「極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻2」(防衛省防衛研究所)

「捕鯨戦艦長門」の由来について

 いわゆる「捕鯨戦艦長門」ネタがWeb上に初めて紹介されたのは、西暦2000年頃らしい。なぜ分かるかというと、02年当時ウチのサイトに小文を掲載するにあたり徹底的に調べた結果、このネタを紹介しているのは下記の1箇所しかなかったからである。

 捕鯨盛衰記02-3 (Webサイト:鯨と海の物語(閉鎖),The Internet Archiveより)

 2011年以降に閉鎖されたと思われるこのサイトに続く2番手がウチであった訳だが、このネタの源流をたどるとただ1人のところに集約する。大洋漁業株式会社で南氷洋捕鯨船団長も務めた故大友亮氏で、「スリップウェーのようなものがついた軍艦」を借りに行った2人のうちの1人である。

 大友氏の著書(私家版)に記されたものが1つと、業界紙に氏が記したものが1つ、他に(おそらく氏を取材して)新聞記者が書籍化したものが1つ、これら以外に「軍艦を借りに行った当時の状況を」「当人が」伝えているものは未見である。他にもしご存知の方があれば、お知らせ頂ければと思う。
(なお、最後の書籍には、その時の第二復員省側の応対者に渡辺安次元海軍大佐がいたようなことが書かれている。艦船運航課長及管船課長の肩書であったらしいので、辻褄は合うが確証はない)

 そして、そのいずれにも、大洋漁業が第二復員省(旧海軍)に戦艦長門を借りる、もしくは第二復員省が大洋漁業に戦艦長門を貸す、という意図があったと読み取れる部分はない。

 戦後、戦艦長門を捕鯨船に転用する“計画”があった!? 〈dot.〉|dot.ドット 朝日新聞出版
 (フリーランス・ライター 秋山謙一郎)

 やはり、夢は夢として楽しんだ方がよさそうである。私もちょっと面白おかしく書きすぎたな、当時はこんなに広まるとは思っていなかったのだけれども。

 戦標船南氷洋を行く 第一章 食料戦士の名の下に (Webサイト:天翔艦隊

-***-

 あと、この記者は何を資料にしてこの記事書いたんですかね。。。随所に間違いが見られるんですけど。。。

 【軍事情勢】マッカーサー→鯨→人間魚雷/長門→原爆実験 - SankeiBiz(サンケイビズ)
 (政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)

三式探信儀南氷洋を行く

 「近代捕鯨」を一言で言えば、捕鯨砲を備えた捕鯨船で鯨を射程内に捉え、銛を打ち込んで仕留めるというものであるが、実際にこれを行うとなると中々難しいことであったようだ。
 最大の理由は、あたりまえのことであるが鯨が水中に潜るからで、捕鯨船の追跡を受けた鯨は、その種類にもよるが最大で1時間ほど潜水することがあった。水中での鯨の様子が分かれば捕獲の効率も上がるだろう、とは当然の発想であろう。

 1950年(昭和25年)、大洋漁業から日本電気に、鯨を捕るための超音波探知機の開発が依頼された。ここで日本電気が引っ張り出してきたのが三式探信儀である。太平洋戦争中に開発された潜水艦探知用のそれは、近年某ブラウザゲームのおかげでやたら知名度が上昇したように思う(三式水中探信儀,三式ソナー)。

 三式探信儀に改修を加えた一号機は、大発艇に装備して試験途中に事故で沈没し、一名の犠牲者を出してしまう。なお、大洋漁業ではエンジン付の小型艇を「大発」と称するので、日本軍の使用したそれと同一かは不明であるが、実際に払い下げられた大発そのものを運用していたりもする。

 同じく二号機は捕鯨船(キャッチャーボート)に装備され、小笠原や日本近海、南氷洋で運用されたが、思わしい成果が得られなかったようだ。鯨体の反射波が弱く、ブラウン管と記録機の画像では航走雑音や鯨の出す渦から識別することが困難であった旨の回想が残っている。

 開発に当たった海上電機(現カイジョー,日本電気(NEC)子会社として設立)の社史の記載からは、この一号機がWF-500、二号機がWF-501と読み取れ、それぞれ昭和25年、27年に開発されている。"WF"はWhale Finderの略であろうか。どうやら一号機では手動であった送受波器の方向操作や昇降が、二号機では遠隔操作が可能になっているようだ。

 改良された二号機ではブリッジですべての操作が可能であったものの、オシロスコープを見るのに黒い布をかぶらなければならない、送受波器のサーボ速度が遅く近距離での鯨の動きについていけないなどの不備な点が多かったようで、ついに実用化されなかった。

初期の鯨探機一式,株式会社カイジョー50年史より
「初期の鯨探機一式」,三式探信儀改造(出典:株式会社カイジョー50年史より)

 結局、鯨探機―鯨探知用の超音波探知機はこう呼ばれる―の実用化は、昭和30年頃に英国で発売されたものの導入を待つことになる。後に国産化され、数年のうちに全捕鯨船に装備されたというから、捕獲効率の上昇に有意なものであったのだろう。

 なお、これら三式探信儀改がどの捕鯨船に装備されたかはよく分からない。株式会社カイジョー50年史から読み取れる範囲では、昭和26年の第六次南氷洋捕鯨において、大洋漁業の第一日新丸船団に2隻、日本水産の図南丸船団に1隻、装備された捕鯨船があったようである。

薄氷を踏んで―(戦時)標準船南氷洋を行く(米国編)

 第二次世界大戦中、米国は標準型輸送船の大量建造を行った。これらの輸送船はいくつかの規格に基づいて建造されており、例えば"EC2-S-C1"型は貨物船で、うっかり2,700隻ほど建造してしまったものだが、これがいわゆるリバティ船である。

リバティ船,Wikipediaより
リバティ船(出典:リバティ船,Wikipediaより)

 ちなみに"EC2-S-C1"は"EC":Emergency Cargo,"2":垂線長400~450フィート,"S":蒸気機関,"C1"=C1型の意味であるらしい(詳しくはこちらなど)。

 標準型には油槽船の規格もあり、このうち"T2"型に属するタンカーはやはり勢い余って500隻ほど作ってしまったのだが、1943年11月にカイザー造船所で完成した"T2-SE-A1"型の1隻は"Oregon Trail"と名づけられ、海兵隊所属となった。

T2タンカー,Wikipediaより
T2タンカー(出典:T2 タンカー,Wikipediaより)

 戦争が終わり、オレゴン・トレイルは1948年に一旦民間会社に売船された後、1950年に再び売船される。新たな船主は海運王アリストテレス・オナシス、船名は"Olympic Challenger"とされた。
 この時オリンピック・チャレンジャーは大改装を受けて捕鯨母船となり、総トン数も3,000t増加して13,000tとなった。機関は従来どおりのターボ・エレクトリックである。4本の煙突のうち、おそらく前2本が船内工場用に追加されたと思われる補助ボイラーのものだろう。

Olympic Challenger
Olympic Challenger(出典:The History of Modern Whaling)

 オナシスは南氷洋捕鯨を目的とする捕鯨会社を設立し、その母船としてT2型タンカーを、捕鯨船としてフラワー級コルベットを、それぞれ改装して捕鯨船団を編成したのである。ちょっと前の大西洋の護送船団を髣髴とさせる組み合わせではある。
 なお、このオリンピック・チャレンジャー船団はパナマに船籍を置き、乗組員は主にドイツ人であったが、これは戦後自国の国旗を揚げて南氷洋に出漁できなかったドイツの苦肉の策でもある。

 さて、この捕鯨船団であるが、しばらく運用してみるとどうも評判が悪い。国際捕鯨条約で定められた操業規制を守らず色々問題を起こした挙句、ついには国際捕鯨委員会に鯨油の差し押さえを食らってしまう。海運王は傘下の一事業に過ぎない南氷洋捕鯨で国際問題を抱えることを嫌い、船団の売却を決める。

 これに飛びついたのが日本の捕鯨会社で、極洋捕鯨と日東捕鯨が競って交渉した結果、極洋が随分高額な買い物をする羽目になったようだ。再び改装を受けて総トン数は16,000tとなり、新たに「第二極洋丸」と命名された。

ShipSpotting.com
© Chris Howell

第二極洋丸(shipspotting.com)

 以後、この元T2タンカーは南氷洋に10回、北洋に4回出漁し、日の丸捕鯨船団の一翼を担うことになる。後に捕鯨枠の削減に伴って不稼動船となり、1974年に売船、翌年韓国で解体された。

 さて、T2タンカーといえば、このスケネクタディー(Schenectady)の船体折損事故である。度々南氷洋に足を運んだ第二極洋丸、こうならなかったのは幸運であったと言えようが、乗っていた人々は気づいていたのだろうか。手記などで触れられているものはないのだが。。。

Schenectady(T2-SE-A1),Wikipediaより
スケネクタディー(T2-SE-A1型)の船体折損事故(出典:スケネクタディー (タンカー),Wikipediaより)

南氷洋捕鯨鯨肉利用事始―(戦時)標準船南氷洋を行く(英国編)

 第一次世界大戦時、ドイツのUボートによる船舶被害に対処するため、イギリスは標準船("Standard Built Ship")の建造を行った。計画への着手が遅れたため、戦争終結前に完成したものは少なく、したがって大戦中の損失もわずかであった。
 とはいえ、戦争が終わっても、一度造り始めてしまったものはそう簡単には止められない。戦後大量に竣工した標準船は、世界中に散って戦間期の海運を担い――次の大戦において、両大洋で大量の損失を蒙っている。

 この標準船のうちのG1型―8,000総トンの一般貨物船―の1隻に、"Narenta"(ナレンタ)という船があった。戦後に完成し、英国船主の下、主にカナダやオーストラリアからイギリスに生鮮肉をチルド輸送していたらしく、冷凍能力を付与されていた。

SS Narenta
Narenta(出典:City of Vancouver Archives

 1939年(昭和14年)、ナレンタは日本に売船され、大阪鉄工所桜島工場で改装工事が行われた。新たな名は厚生丸、船主の名は日本水産である。

厚生丸
厚生丸(出典:日本水産百年史より)

 改装により増強された1日当たり80トン(のち130トン,単位はおそらく冷凍トン)の冷凍能力と、鯨肉5,000トン分の冷凍倉を持った厚生丸は、同年第二図南丸船団の付属冷凍工船として、南氷洋に向けて出航した。これが日本の南氷洋における、初の本格的な鯨肉生産の始まりであった。

 戦前日本の南氷洋捕鯨においては、沿岸捕鯨との競合を避けるため、許可されたもの以外は鯨肉の国内持込みが禁止されており、本格的に解禁されたのはこの年からである。それまで、採油効率の悪い赤肉などはそのほとんどが海洋投棄されていた。
 当時の鯨油と食料の生産量をグラフにするとこうなる。1939/40年漁期に食料の生産量が前年比3倍増になっているのは、厚生丸の能力によるところが大きい。

戦前南氷洋捕鯨生産量

 1940/41年と捕獲頭数(BWU換算)がほぼ等しい戦後の1960/61年の生産量も入れてみたが、この差額が投棄量と見てよいだろう。なお、1940/41年に食料の生産量が前年度比でさらに1.5倍になっている原因は調査中である。第三図南丸船団が厚生丸もう1隻分くらい生産増えてるんだが、なんだこれ。

 1940/41年を最後に、日本の戦前南氷洋捕鯨は幕を閉じる。厚生丸は海軍に徴用され、主に南方への生鮮品の輸送に従事していたが、昭和18年4月7日にトラック島沖で被雷する(Tunny, SS-282)。軽巡長良が曳航を試みたが翌々日に沈没、"Standard Built Ship"の長い喪失リストに加わった。

-***-

 一方で、欧米の捕鯨船団が鯨肉を一切利用していなかったかというと、必ずしもそういう訳でもない。1937年建造のドイツの捕鯨母船"Walter Rau"(ヴァルター・ラウ,独遠洋捕鯨の功労者の名)は、船内に肉粉、缶詰、冷凍の各工場を設けていた。

Walter Rau
Walter Rau(出典:The History of Modern Whaling)

 ヴァルター・ラウ率いる8隻の捕鯨船からなる船団は、1937/8年漁期に18,246tの鯨油の他に、1,024tの肉粉、104tの缶詰鯨肉、114tの冷凍鯨肉などを生産している。南氷洋産鯨肉の本格的な利用は、欧州船団が一歩先んじていたということになる。

 もっとも、戦前のドイツ捕鯨船団は、油脂メジャーと各国政府の思惑と利権をポテトマッシャーで潰して出来た産物で、その結果が遠洋捕鯨の実績がないドイツが南氷洋に出漁できた理由であり、また戦後ドイツが出漁できなかった理由でもあるので、他国の船団と同一視するのは問題かもしれない。

南氷洋捕鯨鯨肉利用事始(英国編)

 近代英国海軍と切っても切れぬもののひとつに、コンビーフサンドイッチが挙げられよう。第二次世界大戦期の戦記や小説には頻繁に登場し、極東の読者に童話の黒パンとぶどう酒並に「一度は食べてみたい」という夢を与えてくれる食物であると思うのだが、如何だろうか。
 日本でコンビーフというと、台形の枕缶に詰められたほぐし肉が一般的であるが、現代の諸外国において、一般的なコンビーフサンドイッチは、塩漬けのブロック肉をスライスしたものを用いるのが主流なようである。

 さて、英国では第二次世界大戦の終結後も長らく配給制度が続いていた。最後まで残っていた肉の配給制度が廃止されたのは、1954年7月4日のことであった。
 ずいぶん長いものだなとも思うが、極東某国では食糧管理法という名の法律が1995年まで残っていたりする。もっとも、末期には成立当初の趣旨とはまったく異なるものにはなっていたが。。。

 肉の配給制度廃止を遡ること3年の1951年7月、とある動物の肉が配給制度外として供給されることがイギリス食糧省から発表された。付けられた名称は"whacon"、由来するところはcorned whale meat、すなわち塩漬け鯨肉である。

  「ちょっと茶色いだけでコンビーフと見た目も匂いも同じだよ」 当時の新聞記事を見るに、どうやら缶詰ではなくブロック肉で供給されたようである。

 Sunday Times(英新聞,タイムズ日曜版,1951/7/8)

 鳴り物入りで導入された塩漬け鯨肉であるが、"whacon"でgoogle検索してもほとんどヒットしないところをみると、そのまま忘れ去られたらしい。

 The Crescent(英新聞,1951/8/24)

 わずかに該当するのものから拾うと、「一晩酢につけようが、一日中茹でようが食べられたものではない」という代物であったらしい。よほど硬かったのだろうか。。。

セイウチ、南氷洋の空を飛ぶ―欧州捕鯨船団のスーパーマリン・ウォーラス

 1946年、建造成ったばかりのイギリス最新鋭の新造捕鯨母船"Balaena"(バラエナ/バリーナ,ホッキョククジラ属の意,15,303総トン)率いる捕鯨船団は、2機のSupermarine Walrusをボート甲板後端に搭載して出漁した。

公試に向かう捕鯨母船バラエナ
公試に向かうバラエナ(出典:Belfast Forum

 ちなみに、"Walrus"(ウォーラス/ウォルラス/ワルラス)はセイウチの意で、北極圏に生息する動物の名を冠した水上機が、南氷洋を飛ぶのも不思議なものだ。

セイウチ
セイウチ(鳥羽水族館,2014‎年‎11‎月‎9‎日筆者撮影)

 なお、用意されたのは計3機で、もう1機はケープタウンに予備機として残置された。 写真はバラエナで運用されるウォーラス。
 Walrus sjøfly(出典:PaaFeltet)

 この時バラエナに装備された航空艤装はカタパルトとクレーンで、左右両舷に射出可能なカタパルトはH.M.S. Pegasusから移設したもの、とされている。船尾に並ぶ円筒形のものは燃料タンク。

捕鯨母船バラエナの航空艤装
(出典:The History of Modern Whaling)

 それにしても、このやたら重厚なクレーンはどこかで見たような気がする。。。そう、戦艦KGVの格納庫あたりで。写真は水上機母艦ペガサス(旧名アーク・ロイヤル)からウォーラスが発進するところ。おそらく航空艤装一式を移植したのだろう。

アーク・ロイヤル (水上機母艦)'>アーク・ロイヤル (水上機母艦),Wikipediaより
水上機母艦ペガサス(出典:アーク・ロイヤル (水上機母艦),Wikipediaより)

 なお、発進は前述のカタパルトによったものと思われるが、揚収はフローティングマットを使用したようだ。

フローティングマット上のウォーラス
(出典:Flightglobal/Archive

 バラエナを紹介した書籍もある。内部構造も分かって興味深い。

 一方、オランダの改装捕鯨母船"Willem Barendsz (I)"(ウィレム・バレンツ,オランダ探検家の名,10,509総トン)も、この年、ウォーラスを搭載して南氷洋に向かっている。

ウィレム・バレンツ(I)
ウィレム・バレンツ(初代)(出典:ANP Historisch Archief Community

 こちらは露天駐機のようだが、この2機のウォーラスにはレーダーが搭載されていたようだ。写真の機の機首上面には方向探知機のものだろうか、ループアンテナが見える。オランダ国旗が半旗になっている理由は分からない。

ウィレム・バレンツ上のウォーラス
(出典:Piloot & Vliegtuig

 セイウチが南氷洋に居られた時期は短かった。イギリスのウォーラスは、1946-47年漁期に満足する運用成績を収めたにもかかわらず、バラエナの乗員居住区を増やす必要が生じたため、格納庫を居住区に改装することになった。

航空艤装撤去後の捕鯨母船バラエナ
航空艤装撤去後のバラエナ(出典:FLK «Balaena»,Wikipedia(no)より)

 ウォーラスは売却され、撤去されたセイウチのねぐらの跡は、人間が占拠することになった。ウォーラスは多くの有利な点を与えてくれたが、巨大な格納庫と甲板スペースを要求し、扱いにくく、そのうえ航続距離も限られていた。

 オランダのセイウチがどうしていたかはよく分からない。搭載されたものの、結局一度も使わなかったという話もあり、おそらく同様の道を辿ったのではないかと推測される。後年、ウィレム・バレンツを撮影した写真にウォーラスはいない。
 後にII世にウィレム・バレンツの名を譲ってブルーメンダール("Bloemendael",地名?)と改名し、中積油槽船に改装されている。

ウィレム・バレンツ(II)とブルーメンダール(旧ウィレム・バレンツ(I))
(出典:Nationaal Archief

 しかし、捕鯨船団の所有者達は、航空機の搭載によるアドバンテージを忘れた訳ではなかった。次の新たな試みとして、当時登場したばかりの回転翼機、ヘリコプターの母船搭載を検討することになる。。。が、それはまた別の物語となる。

-***-

 ちなみにこのバラエナとウィレム・バレンツ(I)、紆余曲折あって、それぞれ日本にやってくる。バラエナは1960年に極洋捕鯨が購入、第三極洋丸と改名し、1978年に解体されるまで北洋捕鯨などに従事した。

第三極洋丸(旧バラエナ)
(出典:第三極洋丸改造工事について,CiNii)

 ウィレム・バレンツ(I)→ブルーメンダールは1961年に日本水産と日東捕鯨が共同購入、日東丸として北洋捕鯨に用いたが、後に日本水産単独の所有となって1964年日栄丸に再度改名している。1966年解体。

南氷洋のフラワー級

 鯨を曳いているのは捕鯨船"Southern Laurel"、こと元フラワー級コルベットHMS Carnation→HNLMS Friso(II)(K 00)。1952年、まだ戦闘艦の面影が濃い。

 Southern Laurel(出典:PaaFeltet)

 まあ、ちょっと前まで戦争やっていたのでやむをえない。
HNLMS_Friso_(1943).jpg
Hr.Ms. Friso (1943)(出典:Wikipedia(nl)より)

 しばらく南氷洋で鍛えると、それなりに捕鯨船らしい面構えになってくる。1963年係船、1966年解体。

 DS/Hvb SOUTHERN LAUREL(出典:Sandefjord Rundt

日の丸掲げて南氷洋捕鯨―フラワー級コルベットの戦後

 第二次世界大戦中、日本海軍は主に特設駆潜艇、特設掃海艇として捕鯨船(キャッチャーボート)を徴用した。中でも南氷洋捕鯨に用いられた大型の捕鯨船は、南氷洋までの往復航が可能な耐航性を持つことから、船団護衛に従事することも多かった。
 捕鯨船の護衛艦艇転用例はすでに第一次世界大戦からあり、その特性を買われて、第二次世界大戦において、英国では捕鯨船の設計を基にしたフラワー級コルベットを、改型を含めて計258隻建造している。

フラワー級コルベット(Wikipediaより)
フラワー級コルベット USS Intensity(出典:フラワー級コルベット,Wikipediaより)

SouthernPride(出典:WARGAMING MISCELLANY)
原型となった捕鯨船Southern Pride(出典:WARGAMING MISCELLANY

 さて、第二次世界大戦が終わって平和が訪れると、戦没を免れたフラワー級コルベットは大量に余剰となって除籍された。船齢が若いこともあってか、そのままスクラップとはならず、民間船に改装されて第二の人(船?)生を歩むものも多かった。中には、原型と同じ捕鯨船に改装されたものもあった。

 1956年、日本で南氷洋捕鯨事業を展開していた極洋捕鯨は、ギリシャ船主から捕鯨母船オリンピック・チャレンジャーを18隻の捕鯨船を含めて船団丸ごと購入した。この捕鯨船のうち、少なくとも14隻が元フラワー級コルベットであった。

 極洋捕鯨は、これらの捕鯨船に「第○○おおとり丸」と命名して自社の捕鯨船団に加えた。さらにそのうち8隻は、後に主機を蒸気レシプロからディーゼルに換装し、新たに「第○○京丸」と命名され、より長く運用された。
フラワー級新旧対応表
 この時購入した14隻のうち、例えば「第十八おおとり丸」と命名された旧"Olympic Hunter"は元"Vetch (K132)"で、Uボート2隻撃沈の戦果を挙げた猛者である。もっとも、酷使が祟ってか主機を換装されることも無く売船され、捕鯨船としての寿命は短かった。

HMS Vetch (K132)(Wikipediaより)
HMS Vetch (K132)(出典:HMS Vetch (K132),Wikipedia(en)より)

 もっとも寿命が長かったうちの1隻が、旧"Olympic Lightning"の元"Smiths Falls (K345,HMCS)"で、「第十六おおとり丸」→「第二十三京丸」となって昭和53年(1978)頃まで運用されていたようだ。
 南氷洋捕鯨船団 「第23京丸」が大阪港を出港/大阪(空撮)1962年よみうり報知写真館より,「第23京丸」で検索)

 フラワー級の1隻、"Tulip (K29)"と捕鯨船"Olympic Conqueror"の船容を比較するに、面影は煙突周りにしか残っていない。後に「第八おおとり丸」となった後、売却されている。

Tulip (K29)(出典:SHIPBUILDING ON THE RIVER TEES)
Tulip (K29)(出典:SHIPBUILDING ON THE RIVER TEESより)
HMS Tulip (K29) - Wikipedia, the free encyclopedia

Olympic Conqueror(出典:SHIPBUILDING ON THE RIVER TEES)
Olympic Conqueror(出典:SHIPBUILDING ON THE RIVER TEESより)

 戦時に連合国で護衛任務を務めた後、戦後日本で南氷洋捕鯨に従事するという数奇な人(船)生を送った軍艦捕鯨船であった。なお、他に大洋漁業もこの元フラワー級捕鯨船を2隻購入し、運用していた記録が残っている。

一等輸送艦小笠原捕鯨戦記

 「捕鯨戦艦長門」が若干の誤解も含みつつ、人口に膾炙してきたのは喜ばしい限りであるが、このネタばかり先行して、実際に小笠原近海で捕鯨に従事した一等輸送艦の影が薄い。戦後に残存した4隻全てが、捕鯨母船として捕鯨事業に従事しているのだが(他に海難喪失及び未成各1隻)。

 小笠原捕鯨に従事した一等輸送艦の写真は何枚か残っており、例えばこの一葉の撮影日は1947年2月28日なので13/16/19号のいずれかだが、16号に前甲板のデッキハウスはないので残りのどちらかだろう。前檣に22号電探が装備されたままである。
 敷設艦を捕鯨船に改造・東京港で よみうり報知写真館より,「敷設艦を捕鯨船に改造・東京港で」で検索)

 一等輸送艦(第一号型輸送艦)の内部配置は、概略下図のとおり。
一等輸送艦図面
橙:居住区/青:貨物倉/桃:缶室/赤:機械室

 そして、一等輸送艦改め特別輸送艦改造捕鯨母船の内部配置図はこちら。改装内容は各艦まちまちで、こちらは初年度('46)の十九号。
一等輸送艦捕鯨母船改装後
黄:鯨肉・鯨油庫/青:プレスボイラー(鯨油搾油装置),装備位置(両舷各1基)

一等輸送艦捕鯨母船改装後ポンチ絵
原図(ポンチ絵)

 後部兵員室潰して、どうやって乗員46名と作業員70名を乗せたのだろうか。居住環境はかなり悪化していたものと思われる。直前まで復員輸送をしていた筈であるが、前甲板にデッキハウスは見当たらず。というか、増えた居住区はこれ元弾火薬庫ですな。。。

 終戦1年目の小笠原捕鯨は、19号を母船として2隻の捕鯨船(359t)と5隻の運搬船(70~80t)、1隻の処理船(998t)という船団で実施され、およそ2ヶ月間の操業で捕獲頭数113頭、油肉その他の生産量1,005トンの「戦果」をあげている。
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天翔

Author:天翔

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ほとんどチェックしていないので、コメント等への反応は保証できません。。。まあもしそんなものがあれば、の話ですが。

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