戦後日本の飛行船事始

 第二次世界大戦後に飛行船が初めて日本の空を飛んだのは、1968年9月のことであった。登録記号JA1001となった軟式飛行船「飛龍号」は、その愛称「キドカラー号」の方がより有名であろう。

 飛行船キドカラー号(出典:日広通信社より)

 日本海軍飛行船隊が1932年10月に訓練を中止して以来、36年ぶりに日本の空に登場したこのGood Year社製の軟式飛行船は、1943年7月にアメリカ海軍の練習用飛行船として竣工したL級の1隻(L-19)であった。
Photo #: NH 53294 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942,Naval History & Heritage Commandより
ドーリットル空襲前に補給を行うL級飛行船L-8(出典:Photo #: NH 53294 Doolittle Raid on Japan, 18 April 1942Naval History & Heritage Commandより)

L級の要目は全長45.0m、気嚢直径12.1m、星型7気筒空冷145hp×2、巡航速力74km/h、乗員2~4名、航続距離880kmで、1942年から翌年にかけてL-4~22の19隻が建造されている。
 なお、L-19は飛行船乗員の訓練に従事していた1944年11月、着陸の際の事故でエンジンと着陸脚を破損し、森に不時着する事故を起こしている。

 ちなみに先の写真のL-8は、訓練飛行中原因不明の理由で乗員2名が行方不明になり、無人となって漂っているところを発見されている。

 L-19は1947年に気嚢を新製交換、1951年まで各種試験飛行に従事した後、1952年には不稼動となった。そして1955年、西ドイツに売却されて"D-LAVO"と命名され、宣伝飛行に従事することになる。

Goodyear Blimp TZ123000, D-LAVO, Friedrich Schwab and Co. KG(出典:Air-Britain Photographic Images Collectionより)

 ドイツの空を飛行船が飛んだのは、1939年8月にグラーフ・ツェッペリンⅡが飛行して以来、およそ16年ぶりのことであった。1,700時間の飛行の後1959年に再度気嚢を新製交換し、その後10年間で6,000時間以上の飛行を行っている。
 なお、どうもこの期間水素を充填して飛んでいたフシがある。

 そして先述のとおり、旧L-19はドイツに続いて日本でも、飛行船復活飛行第一号船となったのであった。

 「キドカラー号」の日本での活躍期間は短かった。1969(昭和44)年4月4日夜、徳島の津田海岸埋め立て地で係留中に強風に煽られて制御不能となり、浮揚ガスの緊急放出が行われ、再建されることなく登録が抹消されている。千葉の航空科学博物館に、同船のエンジンだけが保存されている。

"The Lighthouse Joke"

 "The Lighthouse Joke"なるものがある。日本語では「アメリカ海軍とカナダ当局との間で交わされた実際の無線」あたりで検索するとわんさと出てくるが、米海軍はこれを「 公 式 に 」否定している。

 U.S. Navy: The Lighthouse Joke

 Wikipedia(en)にも独立項目がある。 Lighthouse and naval vessel urban legend - Wikipedia, the free encyclopedia

 上記Wikipediaの中にも言及があるが、こういうTVCMもあるので信じてしまう人もいるようだ。



 USS Montanaはこの80年ばかり該当する艦がない。ちなみにSilvaはスウェ-デンの企業で、有名なコンパスのブランドである。

瀬戸内海に眠るコンクリート船(その1)

 太平洋戦争末期、鉄材の不足に悩む日本は、代用資材による船舶の建造を試みた。その一環として、戦時標準船2E型相当のコンクリート製輸送船が終戦までに4隻建造されたと言われている。

 そのうちの2隻が、終戦後広島県呉市安浦町の安浦漁港の防波堤となって今に現存する。
武智丸(広島県安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)武智丸(広島県安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)

 戦後、艦船を防波堤とした例はいくつかあったが、北九州の若松港のものを除いて現存しない。八戸の戦時標準船2TL型は拡張工事で撤去され、駆逐艦・海防艦を防波堤にしたものの、不良工事による基礎の洗掘で数年を経ずして要を為さなくなった例もある。
武智丸(広島県安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)(広島県安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)

 安浦漁港の2隻は、船体は半ば埋没し、傾斜しているものの、未だ当時の姿を現在に伝えている。
武智丸(広島県安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)武智丸(広島県安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)

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 また、太平洋戦争末期、南方からの原油還送をわずかでも促進するべく、曳航式の油槽船が建造されたことがある。資材不足の折、コンクリートで建造された一隻が、広島県呉市音戸町の坪井漁港で防波堤として現存する。
被曳航式油槽船(広島県坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)被曳航式油槽船(広島県坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)

 もちろん、敵潜の跋扈する海域を、こんな代物を好き好んで曳航したい者がいる筈もなく、ここで防波堤として余生を過ごせたのは幸いであったと言うべきであろう。
被曳航式油槽船(広島県坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)被曳航式油槽船(広島県坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)

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 ところで、被曳航式コンクリート油槽船のうち、現存が知られているもう1隻はやはり瀬戸内海にある。山口県下松市、徳山沖に浮かぶ笠戸島の夕日岬の北側に、満潮時にはわずかに海面に姿を表す程度の残骸として。
被曳航式油槽船(山口県笠戸島夕日岬,2013年7月14日筆者撮影)被曳航式油槽船(山口県笠戸島夕日岬,2013年7月14日筆者撮影)

 ここに骸を晒すに至った経緯は定かでないが、徳山の燃料廠と何らかの関係があるのだろう。終戦後、台風で繋留索が切れてここに座礁し、サルベージしたところで鉄材が得られる訳でもないので、そのまま打ち捨てられたと思われる。訪れる者もいない入江で、このまま朽ち果てていくのだろう。
被曳航式油槽船(山口県笠戸島夕日岬,2013年7月14日筆者撮影)被曳航式油槽船(山口県笠戸島夕日岬,2013年7月14日筆者撮影)

(山口県笠戸島夕日岬,2013年7月14日筆者撮影)(山口県笠戸島夕日岬,2013年7月14日筆者撮影)

シューパロ湖に沈む森林鉄道遺構―三弦橋と重構桁鉄道橋(その2)

 さて、シューパロ湖に水没した重構桁(じゅうかまえげたorけた,JKT)鉄道橋であるが、元をたどれば、昭和23年(1948)に桜田機械が札幌営林局に重構桁6連168トンを納入した記録があるようだ。
 その内訳は不明であるが、これが大夕張ダム完成前の下夕張森林鉄道旧線に用いられ、重構桁鉄道橋として、第一号橋梁(支間20m2連)、同第四号橋梁(14m2連)、同夕張岳旧線 下夕張川橋梁(27.5m2連)、同第一号橋梁(20m2連)の4橋梁計8連が存在した。

 そして、大夕張ダム完成による水没補償工事として、下夕張森林鉄道の第一号橋梁(三弦橋)が完成したことは前述したが、この時27.5m2連(第六号橋梁)、20m1連(第五号橋梁)が転用され、他に20m1連(現存しない)が新線に移設転用されたようだ。
 となると、ここで行方不明になった重構桁は、補償工事時に20m2連と14m2連、廃線後に20m1連である。これらの重構桁はどこへ消えたのか。

 このうち、20m1連は所在が知られている。国道452号を北に向かうと、道路からも姿が確認できる。小巻沢林道橋である。 幸いにして標高が高く、シューパロダムの建設によっても水没する位置にはないと思われる。よって、この旧軍遺産もまだ目にすることができるだろう。。。今しばらくは。
小巻沢林道橋(2009年8月14日筆者撮影)小巻沢林道橋(2009年8月14日筆者撮影)

 近年右岸の橋脚の洗掘が進み、すでにレベルが保てなくなりつつある状態である。
小巻沢林道橋(2007年9月21日筆者撮影)小巻沢林道橋(2007年9月21日筆者撮影)

小巻沢林道橋(2009年8月14日筆者撮影)小巻沢林道橋(2009年8月14日筆者撮影)

小巻沢林道橋(2009年8月14日筆者撮影)小巻沢林道橋(2009年8月14日筆者撮影)

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 もうひとつ所在が判明しているのが、パンケホロカ右股林道の香取橋である。約17m2連相当が使用されており、こちらは位置的に水没の恐れはない。
香取橋(2011年8月17日筆者撮影)香取橋(2011年8月17日筆者撮影)

小巻沢林道橋は研究文献や「鉄道廃線跡を歩く」シリーズ(旧版)にも取り上げられており、まだしも知名度があるが、こちらはまったくといってよいほど鉄道分野に存在が知られていない。わずかに炭鉱跡を追う人達が、その存在をWeb上に記している程度である。
香取橋(2011年8月17日筆者撮影)

 ここ10年間ほど毎年夏に渡道して調べてきたが、残る14m2連の所在は掴めていない。果たして、この夕張の山中に存在するや否や。「かとりはし」と「昭和42年8月竣工」の銘板。
香取橋(2011年8月17日筆者撮影)香取橋(2011年8月17日筆者撮影)

香取橋(2011年8月17日筆者撮影)香取橋(2011年8月17日筆者撮影)

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 最後に、今の地理院地図からは消えた森林鉄道の痕跡。いずれ三弦橋も地図から消えるのだろうが、重構桁鉄道橋が消えるのはいつのことだろうか。
国土地理院地図(2006年)

シューパロ湖に沈む森林鉄道遺構―三弦橋と重構桁鉄道橋(その1)

 北海道夕張市に、シューパロ湖という湖がある。今から半世紀ほど前に、大夕張ダムの完成によって誕生した人造湖である。当時、石炭の産出とともに、林業でも栄える町だった夕張には森林鉄道があり、ダムの建設で水没する路線は架け替えられることになった。

 しかし、林業の衰退とともに、ダム完成から数年を経ずして廃線となり、ダム湖とその湖畔にはいくつかの橋梁が残されることになった。下夕張森林鉄道夕張岳線第一号橋梁こと三弦橋は、湖面に静かにその影を落としていた。
下夕張森林鉄道夕張岳線第一号橋梁(三弦橋)(2009年8月14日筆者撮影)下夕張森林鉄道夕張岳線第一号橋梁(三弦橋)(2009年8月14日筆者撮影)

 第二号から第四号までの橋梁も、湖畔の国道沿いから遠望することができた。
下夕張森林鉄道夕張岳線第二号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)下夕張森林鉄道夕張岳線第二号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

下夕張森林鉄道夕張岳線第三号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)第三号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

下夕張森林鉄道夕張岳線第四号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)第四号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

 そして、第五号橋梁と第六号橋梁には、独特のトラスが使用されていた。旧日本陸軍の鉄道部隊が用いた、分解可搬式のトラス桁である重構桁(JKT)である。おそらくは終戦後、資材不足の時代に残っていた国内在庫を用いたものだろう。
下夕張森林鉄道夕張岳線第五号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)下夕張森林鉄道夕張岳線第五号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

下夕張森林鉄道夕張岳線第六号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)第六号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

 大夕張ダムの直下に、新たに夕張シューパロダムが計画され、近年建設が進められてきた。ほぼ完成に至ったシューパロダムは、大夕張ダムとこれら橋梁群を飲み込んで、現在試験湛水中である。
 2014年4月28日、この日をもって三弦橋以下の残存橋梁はすべて水没し、以後は水位の低下時に出現するのみとなった。現時点での試験湛水の状況はこちらのとおり。

夕張シューパロダム 試験湛水状況写真

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 同時に、同じく湖畔を走っていた三菱石炭鉱業大夕張鉄道線の旭沢橋梁も水没することになる。旧国道より撮影、奥に見えるのは付け替えられた新国道。
三菱石炭鉱業大夕張鉄道線旭沢橋梁(2009年8月14日筆者撮影)三菱石炭鉱業大夕張鉄道線旭沢橋梁(2009年8月14日筆者撮影)

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 大夕張ダムと夕張シューパロダムの位置関係。手前が大夕張ダムで、三弦橋はその提体のわずか上に位置する。
シューパロダム(2013年8月11日筆者撮影)

シューパロダム(2013年8月11日筆者撮影)シューパロダム(2013年8月11日筆者撮影)

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 そして2014年夏。これら橋梁を飲み込んで、シューパロ湖は水を湛えている。
シューパロダム(2014年8月13日筆者撮影)

シューパロ湖(2014年8月13日筆者撮影)シューパロダム(2014年8月13日筆者撮影)

 わずかに旭沢橋梁のみが、一部を水面上に現していた。
三菱石炭鉱業大夕張鉄道線旭沢橋梁(2014年8月13日筆者撮影)三菱石炭鉱業大夕張鉄道線旭沢橋梁(2014年8月13日筆者撮影)

戦艦扶桑―初の国産超弩級戦艦(その4)

 梯形配置と呼ばれる主砲の配置がある。弩級艦時代に限れば、艦形の拡大を抑えることを主として、なお首尾線方向への火力も確保する為のものと言える。特に港湾・修理施設や運河の制約により、幅や喫水の制限が厳しい英独で多用された。

英巡洋戦艦主砲配置(Wikipediaより)
英巡洋戦艦砲塔配置(出典:インヴィンシブル級巡洋戦艦,Wikipediaより)

 梯形配置の元をたどれば、前弩級戦艦の中間砲に行き着くことが出来るだろう。日独の戦艦のように、そのまま主砲と置き換えて亀甲配置にしてしまったものもある。ここから対角線の砲塔を撤去すれば、梯形配置となる。

戦艦キングエドワード7世級(Wikipediaより)
(出典:King Edward VII-class battleship,Wikipedia(en)より)

 オライオン級に至って、ようやくこれまでの幅と喫水の制限から開放され、艦形を拡大して13.5インチ砲を搭載すると共に、全砲塔が中心線配置となる。主として幅の増大により、重心の上昇が大きい前部主砲群の背負式配置が可能になったものと思われる。
 また、これまでどおり砲塔を舷側に配置すると船体強度に不安が生じること、防御面にも限界があることも理由であろう。

戦艦オライオン(Wikipediaより)
戦艦オライオン(出典:オライオン級戦艦,Wikipediaより)

オライオン級砲塔配置
(Wikipediaより)

 もっとも、英海軍にはまだ若干の迷いがあったのではないか、と思わせるものもある。巡洋戦艦ライオン級のQ砲塔―いわゆる第三砲塔―の弾薬庫配置は左舷側に偏っており、本来は舷側配置であったものを中心線配置に変更した名残、とも考えられる。(※この指摘は、私の知る限りWebサイト三脚檣の志郎さんが最初です)

巡洋戦艦ライオン(Wikipediaより)
巡洋戦艦ライオン(出典:ライオン級巡洋戦艦,Wikipediaより)

(出典:British Battleships of World War One, R. A. Burtより)
(出典:British Battleships of World War One, R. A. Burtより)

 さて、扶桑型の計画にはこの梯形配置案がいくつか存在し、そのうちの一つがA47案である。時期的には金剛型の計画時であろう、扶桑の計画番号はA64である。平賀譲デジタルアーカイブ 資料番号:2026 A47(4/12)
 このA47案の3/4番主砲塔を中心線配置とすると、実際に建造された扶桑の砲塔配置となる。艦形の拡大により、15インチ砲塔を中心線配置とする余裕が出来たからであるとすれば、非難轟々たる「あの」主砲配置の成立経緯として妥当なものではなかろうか。A47の全長(垂線間長)615ftに対して扶桑は630ft、その差は4.6mほどで、梯形配置による恩恵はあまりないようだ。
 なお、扶桑の3/4番砲塔の弾薬庫配置は中心線に対して左右対称である。

 結論として、扶桑型の砲塔配置は梯形配置の舷側砲塔が元になったもの、と言ってよいのではなかろうか。その是非は、建造当時の日本が置かれた状況を、またその後30年に渡って日本の国防を担う存在となった主力艦として、扶桑型をどう見るかによると思われる。
 扶桑の砲塔配置をただ欠陥と指摘するものは掃いて捨てるほどあるが、なぜあの砲塔配置を選ぶに至ったか、を記述したものを見たことがない。なぜだろう。

 戦艦扶桑。竣工から遡ることわずか10年前には日本海海戦があり、その時国産主力艦を持っていなかった日本からすれば、超弩級戦艦の建造まで長足の進歩を遂げたと言える。至らぬ点はあったと言えど、日本の古名を冠する戦艦を、十分な根拠なしに欠陥と断ずるのも悲しいものだと思う。

戦艦扶桑―初の国産超弩級戦艦(その3)

 背負式に配置された砲塔のことを"Superfire"というらしい。弩級艦あたりを一足飛びに進化してしまった日本では、あまりなじみのない単語であるが、英wikiには独立項目として設けられている。
 Superfire - Wikipedia, the free encyclopedia

 弩級戦艦の登場当時、射撃方位盤はまだ存在しない。当然、照準は砲塔側で行う必要があり、当時の英式砲塔はこうなっている。左右がそれぞれ左右砲手の、中央が砲塔長の照準口と思われ、ここから望遠鏡式の照準器で照準を行う。照準器は中央は双眼、左右は単眼で、中央だけ幅が広くなっている。
 よく見ると、中央のカバー後端にはスリットが設けられているのが見え、このあたりには人間の頭が入っている筈である。

戦艦ドレットノート後部砲塔(Wikipediaより)
戦艦ドレットノート後部砲塔(出典:ドレッドノート (戦艦),Wikipediaより)

 例えばこの砲塔を背負式に配置すると、下部砲塔の照準口のほぼ真上に上部砲塔の砲口が位置することになる。首尾線方向に射撃を行ったとしたら、下部砲塔の砲手はただでは済まないだろう。

戦艦ネプチューン(Wikipediaより)
戦艦ネプチューン(出典:ネプチューン (戦艦),Wikipediaより)

 後に潜望鏡式の照準装置を開発して対策とし、照準口は小さなものになっている。

戦艦コロッサス(Wikipediaより)
戦艦コロッサス(出典:コロッサス級戦艦,Wikipediaより)

 この時期の英式砲塔の進化はこちら。一方で、新造時の写真を見ると、本図とは異なり、全主砲塔が同一平面上配置のセント・ヴィンセント級までは望遠鏡式のフード、後部二砲塔が背負式になるネプチューンからは潜望鏡式のフードを装備して就役しているようだ。後に砲塔天蓋の装甲追加と共に、望遠鏡式で就役した艦が潜望鏡式に改造されているのが確認できる写真も残っている。
 というのか、これでいいのかエジンコート。。。

British Battleships of world war one, R A BURTより
(出典:British Battleships of World War One, R. A. Burtより)

 では、英式の流れを汲む日本ではというと、初めて背負式砲塔を持った金剛の公試時に確認をしているが、特に問題はなかったようだ。 平賀譲デジタルアーカイブ 資料番号:2120 金剛砲熕公試発射報告(一部抜粋)
 扶桑の公試でも、背負式の上側になる2/5番主砲塔の爆風が下側の1/6番に及ぼす影響への言及がある。 平賀譲デジタルアーカイブ 資料番号:5008 軍艦扶桑砲熕公試発射記事 別冊甲乙添

 さらに遡ると、戦艦薩摩で何やら妙なことをやっている。後部主砲の砲口直下に位置する幕僚公室の窓に筒をつけて、爆風の影響を調べているようだ。背負式配置への布石、だろうか。平賀譲デジタルアーカイブ 資料番号:2058

 ちなみに、アメリカ海軍は一歩先んじて、戦艦サウスカロライナで背負式中心線配置を実現している。 これに先立ち、テストベッドとしてモニター艦フロリダで背負式砲塔の実験を行ったという。日本語wikiからは記述が綺麗に省かれているが。。。
フロリダ (モニター) - Wikipedia

 なお、イギリスで初めて前部砲塔を背負い式に配置したオライオン級について、上部砲塔は中心線より±15°の射撃が禁じられていた、との記述も書籍で見るが、先に述べたとおりネプチューンから照準口フードを変更済みのようだ。単に規則で禁じられていたのか、それとも物理的理由で不可能であったのか。。。

 ただ、弩級戦艦の時代から80年後、戦艦アイオワが1/2番砲塔を中心線から15°右舷に指向した状態で発砲したところ、1番砲塔で電源がすっ飛んだというようなこともあり、下部砲塔が厳しい条件にさらされるのは間違いないようだ。
USS Iowa turret explosion - Wikipedia, the free encyclopediaより
 Gunnery training and experiments

※平賀譲デジタルアーカイブは、一度「閲覧はこちら」を押すと見られる筈

戦艦扶桑―初の国産超弩級戦艦(その2)

 一言に軍艦の装甲と言っても色々ある。もっとも、大体の市販書籍だと「舷側:○○mm~××mm、砲塔:△△mm、甲板:□□mm~☆☆mm」程度のことしか書かれていないが、もう少し詳しく見ていくと、国別・時代別に色々違いがあって面白い。

 日本の主力艦の甲板装甲だが、英国製の三笠を見ると、煙突の上に描かれている船体切断図のとおり、甲板装甲が曲線を描いて舷側装甲下端に接続されている。

戦艦三笠(Wikipediaより)
1906年版ジェーン海軍年鑑における要目(出典:三笠 (戦艦),Wikipediaより)

 その流れを汲んで、初の国産戦艦薩摩も同様の防御形式となっている。平賀譲デジタルアーカイブ 資料番号:2009
 装甲巡洋艦(のち巡洋戦艦)伊吹も同じ。ちなみに、筑波も同じである。平賀譲デジタルアーカイブ 資料番号:2012

 ところが、河内と扶桑は異なり、甲板装甲は水平に張られている。扶桑の場合はこちら 平賀譲デジタルアーカイブ 資料番号:2016
 で、伊勢でもう一度、英国式の舷側装甲下端に甲板装甲が接続される張り方に戻っているのである。

 なぜ河内と扶桑がそうなったかについてはよく分からない。が、なんとなくそれっぽい理由が分かるような気もする。 平賀譲デジタルアーカイブ 資料番号:1037 「輓近英国軍艦ノ装甲防禦ニ就テ」 5/15~
 達筆すぎて読めないが、「甲板装甲を厚くすると重くなるし、船体の縦強度にも寄与しない。だったら強度が上がる上甲板とかに張った方がよくないか。弾道も水平に近いのだし」ということを言っている、ような気がする。平賀譲、明治41年(1908年)の署名がある。

 同時期の他の国を見ると、ドイツはより薄いながらも英国式の張り方だが、アメリカはこの日本式と同じく傾斜部を持たない方式のようだ。ただ、オクラホマ級からは傾斜装甲を持つようになる。

Photo #: S-584-009(Naval History & Heritage Commandより)
戦艦オクラホマ級装甲配置(出典:Photo #: S-584-009 "Battleships Nos. 36 & 37" ... November 13, 1911Naval History & Heritage Commandより)

 この傾斜装甲は、主装甲帯を貫通してきた砲弾や、その炸裂した破片(不貫通の場合に生じる破砕された装甲裏面も含む)を受け止め、また傾斜浸水時の被害極限などを担うものであるが、範囲が広範に渡るため、わずかでも厚みを増やすと非常に重量が増加する欠点を持つ。
 一度扶桑で廃された理由がおそらくそれであろうし、伊勢で復活したのは戦艦主砲の大口径化が進んで砲弾の威力が向上したからであろう。当時の日本の装甲鈑製造能力的に、舷側装甲の厚みを増やすことが困難であったのも理由かもしれない。

 扶桑と伊勢は一見準同型艦に見えるけれども、水平装甲の張り方が根本的に違う―すなわち、それぞれ異なる防御計画に基づいて設計された艦、ということになる。装甲配置が異なり、主砲塔配置が異なり、さらには缶が異なり、機関が異なる艦を、姿形が似ているからといって同じものと捉えるのは適当ではないだろう。
 ちなみに、扶桑は主砲塔も金剛や伊勢と違うより小型のものを搭載しており、バーベット径も異なる。

 伊勢は、決して扶桑の砲塔配置を変えただけの艦ではない。

※平賀譲デジタルアーカイブは、一度「閲覧はこちら」を押すと見られる筈

戦艦扶桑―初の国産超弩級戦艦(その1)

 扶桑型の「欠陥」とされるものの一つに、『砲塔配置が不適切だった為、主砲発射時に爆風が艦全体を覆う』というものがあるが、これは、いつ、誰が、どこで、問題として提起し、そしてどのような解決が図られたのだろうか。
 また、伊勢が起工した時、扶桑はまだ竣工していない(参考)。主砲射撃公試も行っていないのに、あらかじめこの欠陥が判明するのなら、なぜ最初から伊勢の砲塔配置にしなかったのだろうか。

戦艦山城(Wikipediaより)
(速度公試中の山城,出典:扶桑型戦艦,Wikipediaより)

戦艦伊勢(Wikipediaより)
(完成直後の日向,出典:Ise-class battleship,Wikipedia(en)より)

 扶桑の砲塔配置について、公式に扶桑型が改設計を要する旨を説いた文書はこれしか見たことがない。アジア歴史資料センターレファレンスコード:C08020922800 18P~
 概略、大口径砲搭載艦が増えてきたし、背負い式の高い位置にある砲塔は被弾面積が大きいから、砲塔装甲厚くしないといかんよね、といったところ。砲塔配置については一片も言及がない。。。が、扶桑型の第3/4砲塔が、伊勢型で甲板一層削ってあの位置まで降ろされたのと、無関係ではない気がする。
 また、この文書が出たのは大正2年(1913年)で、山城起工の半年も前であるのも興味深い。

 さて、扶桑型の主砲発射による爆風被害は、そんなに問題となるものだっただろうか。問題であったとすれば、いつ、誰が、どこで問題として提起し、どのような解決が図られたのだろうか。

 扶桑の主砲射撃公試、確かに色々壊れている。。。が、概ね電球が切れたとか何かが外れたとかその程度である。平賀譲デジタルアーカイブ 資料番号:5008 軍艦扶桑砲熕公試発射記事 別冊甲乙添
 では他の戦艦はどうだったのか、というと、比叡の記録が残っている。戦艦が主砲を撃ったら、何かしら壊れるものである、ということが分かる。平賀譲デジタルアーカイブ 資料番号:2097 軍艦比叡 公試運転及発射ニ関スル記録 (17/67)

 扶桑の公試最後の「所見」にある爆風関係のものはただ一つ、第2/5番主砲塔(背負い式の上側)の爆風が第1/6番(下側)に及ぼすものだけ。これは砲塔の背負式配置、"Superfire"がもたらす影響であるので、また別の話になる。

 少なくとも、新造時の扶桑においては、その主砲配置を原因とする爆風の影響で生じる不都合はないようだ。

 ほんの1世紀前のことでも、事実というものを正確に伝えるのは困難なことであるらしい。扶桑型新造時の機関出力は40,000馬力とされていることが多く、それ以外の数字が書いてあるものをほとんど見たことがない。けれど、平賀アーカイブにはこんな資料がある。扶桑公試、10/10、平均23.0kt、46,263軸馬力。平賀譲デジタルアーカイブ 資料番号:2224 軍艦扶桑公試運転成績

※平賀譲デジタルアーカイブは、一度「閲覧はこちら」を押すと見られる筈
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