瀬戸内海に眠るコンクリート船(その3)

 太平洋戦争末期、戦時標準船2E型相当のコンクリート製輸送船が4隻建造された。いわゆる武智丸型であるが、そのうちの2隻は広島県呉市安浦町の安浦漁港の防波堤となって今に現存する。

第一・第二武智丸(広島県呉市安浦町安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)
第一・第二武智丸(広島県呉市安浦町安浦漁港,2013年7月13日筆者撮影)



 国土交通省の地図・空中写真閲覧サービスより、1962/05/31(昭37)撮影のMCG629-C13A-21の一部。第一・第二武智丸2隻を沈船防波堤とする工事は昭和25年春に完成し、当時は陸地と連絡していなかった。
呉市安浦町安浦漁港1962/05/31(昭37)
MCG629-C13A-21(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 1975/01/31(昭50)撮影のCCG-747-C22B-72の一部。この頃第一武智丸に繋がる東側の埋め立てが始まったらしい。
呉市安浦町安浦漁港1975/01/31(昭50)
CCG-747-C22B-72(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 1981/10/15(昭56)撮影、CCG814-C6A-34の一部。繋がったけれど、岸側の第一武智丸沖側の護岸工事はまだのようだ。
呉市安浦町安浦漁港1981/10/15(昭56)
CCG814-C6A-34(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

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 さて、4隻建造された武智丸型であるが、第一・第二武智丸はこうして沈船防波堤となり、第三武智丸は終戦直前に小豆島沖で触雷沈没、第四武智丸は終戦後神戸で座礁、廃棄されたと伝えられている。

 防波堤となる前、第一武智丸は機関故障のため、呉の警固屋地区でしばらく放置されていたらしい。第二武智丸は終戦後大阪商船に払い下げられたものの、ほとんど運航されずに廃棄され、大阪にいたとのこと。

 国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、1947/05/05(昭22)撮影のUSA-M280-77の一部。呉市警固屋地区やや北方、呉製鉄所沖に係留中のコンクリート船第一武智丸(推定)。
呉市警固屋地区沖合1947/05/05(昭22)
USA-M280-77(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 1番違いの連番USA-M280-78になると、こんなにも写り具合が変化してしまう。レンズの歪みなどもあって難しい。
呉市警固屋地区沖合1947/05/05(昭22)
USA-M280-78(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 色々ひねくり回してみたけれど、まあ、多分、そんなに間違ってないんじゃないだろうか。左からUSA-M280-77,USA-M280-78,GoogleMapより。
左からUSA-M280-77,USA-M280-78,GoogleMap

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 コンクリート船は一旦は戦時計画造船に組み入れられたものの、戦局の悪化による計画縮小により最終的には中止されている。よって、武智丸型を戦時標準船とするかどうかは定義に拠ることになるかと思われる。

やすうら夢工房
 コンクリート船 武智丸

ヨコハマ造船所
 海軍コンクリート造船技術概要

特TL型しまね丸の無線マスト

 太平洋戦争中に日本が建造した戦時標準船のうち、主として船団護衛に用いるためTL型(大型油槽船)に飛行甲板を装備した特TL型と呼ばれるものがあった。

特TL型 - Wikipedia

 計画されたほとんどが竣工することなく終戦を迎えたが、わずかに完成したうちのしまね丸(原型1TL)は、1945年(昭和20年)7月24日、香川県さぬき市の志度湾(鴨庄湾)にて英海軍艦載機の攻撃を受け、大破着底している。

しまね丸 (タンカー) - Wikipedia

 国土交通省の地図・空中写真閲覧サービスより、1947/04/12(昭22)撮影のUSA-M204-19の一部。大破着底中のしまね丸。何か横付け中であるが、東側(写真右手)が船首だろうか。

香川県さぬき市志度湾(鴨庄湾)1947/04/12(昭22)
USA-M204-19(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

特TL型しまね丸(出典:Wikipediaより)
特TL型しまね丸(出典:しまね丸 (タンカー),Wikipediaより)

 およそ5ヵ月後の1947/09/08(昭22)撮影、USA-M450-83。切断された船体前半部分(?)が湾の奥で解体中。残っているのは水没している後部であろうか。

香川県さぬき市志度湾(鴨庄湾)1947/09/08(昭22)
USA-M450-83(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 ここで短い生涯を終えたしまね丸であるが、無線マストを地元の有志が貰い受けて消防団の警鐘台となった後、移設保存されて現在に至っている。

しまね丸無線マスト(四国村,香川県高松市,2015年12月19日筆者撮影)
しまね丸無線マスト(四国村,香川県高松市,2015年12月19日筆者撮影)

 警鐘台は志度町鴨庄白方に設置されていたというから、正に先の写真で解体されていた浜の付近である。マストの根元には機銃弾の弾痕とされる窪みが残っていた。

瀬戸内海に眠るコンクリート船(その2)

 太平洋戦争中に建造された被曳航式コンクリート油槽船の残骸が、山口県下松市の笠戸島にある。夕日岬の北側、満潮時にはわずかに海面に姿を表す程度であるが。

被曳航式油槽船(山口県下松市笠戸島夕日岬,2015年5月5日筆者撮影)
被曳航式油槽船(山口県下松市笠戸島夕日岬,2015年5月5日筆者撮影)



 さて、この残骸はいつからここにあるのだろう。国土交通省の地図・空中写真閲覧サービスより、1962/05/19(昭37)のMCG625-C8-12の一部を拡大したもの。この時、もうすでに残骸であったらしい。

笠戸島夕日岬1962/05/19(昭37)
MCG625-C8-12(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 では、もう一つ遡ろう。1947/03/12(昭22)撮影のUSA-M114-83の一部を拡大したもの。船の形をしたものが4隻確認できる。

笠戸島夕日岬1947/03/12(昭22)
USA-M114-83(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 現残骸がこのうちの1隻である可能性は高いが、残りの3隻はどこへ行ったのだろう。今も水面のベールの下に存在するのか、それともどこかへ運ばれていったのか。

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 さて、被曳航式コンクリート油槽船がより原型に近い形で残っている場所があり、広島県呉市音戸町の坪井漁港の防波堤として現存する。

被曳航式油槽船(広島県呉市音戸町坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)
被曳航式油槽船(広島県呉市音戸町坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)



 国土交通省の地図・空中写真閲覧サービスより、1948/01/07(昭23)撮影のUSA-M2-6-73の一部を拡大したもの。中央は大破着底した戦艦伊勢。

呉市音戸町坪井漁港1948/01/07(昭23)
USA-M2-6-73(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 ちょうど漁港の防波堤になる位置ではあるけども、なんというか、ものすごく邪魔だったというか、迷惑だったんじゃないだろうか。

音戸町坪井沖で爆撃を受ける伊勢(出典:Wikipediaより)
音戸町坪井沖で爆撃を受ける伊勢(出典:Wikipediaより)

 10年余り時代を下って、1962/07/30(昭37)撮影のMCG628-C29B-3の一部を拡大したもの。伊勢が解体撤去され、漁港に被曳航式コンクリート油槽船の防波堤が設置されている

呉市音戸町坪井漁港1962/07/30(昭37)
MCG628-C29B-3(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 防波堤の脇の建設記念碑。薄れて読みにくくなった裏面の碑文には、昭和31年12月にこの碑が建立された旨が記されていた。

防波堤建設記念碑(広島県坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)
防波堤建設記念碑(広島県呉市音戸町坪井漁港,2013年7月13日筆者撮影)

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 最後に、坪井漁港と同様に被曳航式油槽船が防波堤として設置されていたと思われる、山口県周南市の粭島漁港。1962/05/19(昭37)撮影のMGC625-C8-3、防波堤がそれらしい形をしている。

山口県周南市粭島1962/05/19(昭37)
MGC625-C8-3(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス



 どうやら比較的早期(昭和43~45年頃?)に撤去されたらしく、すでに現存しない。

-***-

 最初の笠戸島夕日岬の写真で確認できる4隻のうち、1隻が現地の残骸、1隻が坪井漁港、1隻が粭島漁港とすると、残りは1隻。下関の方で同様に沈船防波堤となったという話を聞いたことがあるが、はてさて。

鉄道連絡船のその後

 国鉄の鉄道連絡船で、廃船後にポンツーンになったと伝えられている船が何隻かある。関係者の手記に登場するのは第八青函丸、日高丸、十勝丸(?)、紫雲丸あたりで、いずれも関西~瀬戸内海の造船所で余生を送ったという。

 このうち、日高丸と紫雲丸は平成の世まで現存したことが分かっている。場所は広島の新来島宇品どっく。すでに平成4年頃?に解体されているので現存しない。

 国土交通省の地図・空中写真閲覧サービスより、1988/10/10(昭63)撮影のCCG881-C22-2の一部を拡大したもの。おそらく左のポンツーンがex-紫雲丸、右がex-日高丸ではないかと思われる。

新来島宇品どっく1988/10/10(昭63)

八戸港の沈船防波堤―戦時標準船2TL型の戦後

 国土交通省の地図・空中写真閲覧サービスより、1961/04/28(昭36)撮影のMTO611-C5-212の一部(明度・コントラスト調整)。 戦時標準船2TL型3隻による沈船防波堤で、西(写真左)から順に東城丸、大杉丸(未成)、富島丸(未成)、沈設は昭和23年7月。

八戸港1961/04/28(昭36)
MTO611-C5-212(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 残念ながら現存せず、現地には「船の碑(いしぶみ)」と題する記念碑のみが残っている。



 1975/11/12(昭50)撮影のCTO7517-C13-42の一部。最西端の一隻が撤去された模様。Web上では沈船防波堤は昭和42年撤去との記述を見かけるが、この時撤去されたのは東城丸のみらしい。

八戸港1975/11/12(昭50)
CTO7517-C13-42(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 1992/06/26(平4)撮影のTO921X-C20-13の一部。すべての沈船防波堤が撤去され、現在とほぼ同じ状態になっている。残りの二隻が撤去されたのは、1985年 (昭和60年)のことのようだ。

八戸港1992/06/26(平4)
TO921X-C20-13(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 沈船防波堤の写真を見たことがあるが、富島丸の船首に足場を組んだような灯台が設置してあり、戦標船の直線的な舳先とあいまって独特の雰囲気があったことを記憶している。

”八戸港沈船防波堤の出来上る迄” 土木学会誌より
 第三十四巻 第一号 昭和24年4月発行 (1949年)
 第三十五巻 第二号 昭和25年2月発行 (1950年)

国土交通省東北地方整備局 八戸港湾・空港整備事務所
 応急方法だった沈船防波堤

貨物船ビハールについて

 このニュース映画に登場する「敵イギリスの1万トン級貨物船」、どうやら貨物船ビハール(Behar)であるらしい。7,489総トン、主機4気筒2サイクルディーゼル2基2軸、The Hain Steam Ship Co.所属。

日本ニュース 第202号|NHK 戦争証言アーカイブス

ビハール(NHK日本ニュースより)
(画像出典:日本ニュース 第202号)

貨物船ビハール
(画像出典:MV 'THE BEHAR'

 先代が1940年に機雷に接触して大破放棄されたため、その代船としてグラスゴーはクライドのBarclay Curle造船所で1943年3月末に竣工した同船は、南アフリカとインドを経由するオーストラリア航路に就航した。

 1944年2月19日、オーストラリアのメルボルンから英国に向け出港し、経由地のボンベイに向かっていた同船の運命はWikipediaに詳しい。

ビハール号事件 - Wikipedia

 さて、ニュース映画の中で転覆沈没する同船の船首に、なにやら突起のようなものが写っていたので水測兵器かなと思っていたが、捕虜となったうちの1名にアスディックオペレーターがいるらしく、やはりASDICのようだ。 先の同船画像出典先のWebサイトは、ビーハル乗組で砲手兼アスディックオペレーターであった英海軍下士官の訃報(2002年)を伝えるものでもある。

転覆するビハール1(NHK日本ニュースより)

転覆するビハール2(NHK日本ニュースより)
(画像出典:日本ニュース 第202号)

 なお、日本でも有名どころだと日本郵船の浅間丸に三式探信儀を積んでいたりするので、アスディックの装備は不思議なものではない。輸送船などへの探信儀装備例は、「海軍電気技術史」の第6部に詳しい。

桜と錨の海軍砲術学校-史料展示室『海軍電気技術史』昭和22年

ある浮船渠の由来-陸軍特殊船熊野丸の戦後

 日本陸軍が建造した揚陸艦の一種である陸軍特種船の一隻に、熊野丸(戦時標準船M丙型)がある。1945年(昭和20年)3月31日に一応の竣工とされたものの、戦局はすでに本船が運用が可能な状況にはなく、広島湾の金輪島に兵装未搭載で擬装を施して係留されたまま終戦を迎えている。
 戦後は引揚輸送に従事した後、1948年(昭和23年)8月末までに解体されたようだ。

陸軍特殊船熊野丸
陸軍特殊船熊野丸(出典:熊野丸,Wikipediaより)

 国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、1948/02/20(昭23)撮影のUSA-M18-4-61の一部、神戸港。現在の神戸市灘区沖、神戸製鋼付近に停泊中の陸軍特殊船熊野丸。

USA-M18-4-61
USA-M18-4-61(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 熊野丸の解体後、二重底のみがしばらく神戸港に浮いていたという。その後川崎重工神戸が払い下げを受け、12月から浮きドックへの改装工事に着手した。

 二重底を船台に台車で引き揚げて上部構造物を追加建造し、1949年(昭和24年)3月9日に再びの進水を経て、3月末に1,000総トンの収容能力を持つ浮きドックとして完成している。なお、新設部分にも熊野丸の解体材料の転用が図られ、機器類もありあわせのものが使用された。

1,000t浮きドック
1,000t浮きドック(出典:関西造船協会会誌 (67), 1950-09)

 同じく1961/05/14(昭36)撮影のMKK611-C15-120の一部、川崎重工神戸工場付近。中央の大きな浮きドックは川崎の誇る13,000t浮きドック(1953年完成,第三浮きドックと命名)。その左側にいるのがex-熊野丸のようだ。 第三浮ドックの完成と命名に合わせ、ex-熊野丸は第二浮ドックと命名される。

MKK611-C15-120
MKK611-C15-120(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 1972/05/03(昭47)撮影MKK726-C3-12、中央に二基並んでいる小型の浮きドックのうち、左側の小さい方がex-熊野丸らしく、これがおそらく最後に確認できる写真ではないかと思われる。実際にこの浮船渠がいつまで活動していたかは分からない。残存・帝国艦艇(木俣滋郎,S47図書出版社)によれば、ex-熊野丸こと第二浮きドックは「昭和47年末に廃棄される予定」とされている。

MKK726-C3-12
MKK726-C3-12(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 余談であるが、13,000t浮きドック(第三浮ドック)の方はポンツーンの輪切りを6つ進水させて後で繋げ、上部構造物を載せるという面白いことをやっている。こちらは、現在稼働中の新第三浮きドックが完成する1986年(昭和61年)2月まで現役だったようだ。

CiNii 論文 - 二重底を改造せる浮船渠の設計に就て
CiNii 論文 - 12,000_T浮船渠「ポンツーン」の進水に就いて

CiNii 論文 - 浮揚力38,000t"新第三浮ドック"
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