艦本式ディーゼルと2隻の2TL型戦時標準船【2017/3/12改稿】
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、1947/03/18(昭22)撮影のUSA-M124-103の一部。広島湾の大黒神島北部で擱座中の戦時標準船2TL型、さばん丸(1944年9月竣工)。

USA-M124-103(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
Naval History and Heritage Commandより、1945年7月24日に艦載機の攻撃を受けるさばん丸。すでに浅瀬に乗り上げて船体は半ば海面下に没している。同船はそれまでの空爆でこの場所で被弾着底していたものの、一旦は浮揚に成功して修理中であった。

空襲下のさばん丸(出典:80-G-490152, Naval History and Heritage Command)
同じく、1948/01/12(昭23)撮影のUSA-M731-115。徳山湾の西、太華山の麓で擱座中の戦時標準船2TL型、玉栄丸。

USA-M731-115(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
この2隻に共通するのは、戦後浮揚されて再就役を果たしたこと。そして、新造時に搭載していた機関が艦本式ディーゼルだったことである。
元をたどると、横須賀での空母改装時に撤去されてしまった大鯨の主機関である複動2サイクル10気筒6,800BHP(定格)の艦本式ディーゼル11号10型を単動化し、三菱横浜で建造されたこの2TL型2隻にそれぞれ片舷1軸分2基がフルカンギヤごと搭載されたらしい。改造後の定格は1基当たり1,560~1,800と資料によってばらつきがある。
単動化してなお不調だったとされるこの11号とフルカンギヤ、復旧工事でさばん丸の主機は蒸気タービンに換装された(1949年)が、玉栄丸に新たに搭載されたのはなんと艦本式ディーゼル25号2型であった(1948年)。

玉栄丸(出典:Australian War Memorialより)
艦本式ディーゼル25号は、それまでの2号より製造と取扱いが容易で性能に優れた潜水艦主機として三菱神戸で設計・製造され、2型が1944年に試運転までこぎ着けたものの、戦局の悪化に伴い潜水艦には搭載されず、生産も中止されたものである。
戦局の都合で量産されなかった最新型。。。何か心を揺さぶられるものがある(ような気がする)。25号の詳細と写真については社史「新三菱神戸造船所五十年史」の他、本稿末尾掲載の「日本の艦艇・商船の内燃機関技術史」に掲載されている。
以後、日本水産所属となった玉栄丸は、計16次に渡る南氷洋捕鯨と漁閑期のペルシャ・アメリカからの原油輸送、後にミール工船に改装されてからは北洋での母船式漁業にも従事し、地球を十文字に駆け巡ることになる。
生産数1基の機関、控え目に言っても扱いづらかったと思うが。。。トラック島で引き揚げた第三図南丸を日本まで長駆2千海里曳航し、また南氷洋で事故により沈没した冷凍工船摂津丸の最後を見届けるなど、1975年(昭和50年)に解体されるまで、波乱万丈の生涯を送った戦標船であった。
なお、いつまで25号を搭載していたかは不明であるが、解体までに再度機関換装を行った記録は未見である。
CiNii 論文 - 日本の艦艇・商船の内燃機関技術史(第2次世界大戦終結まで) -艦艇用内燃機関編(その2)-
CiNii 論文 - 日本の艦艇・商船の内燃機関技術史(第2次世界大戦集結まで) -商船用内燃機関編(その6)-
艦本式ディーゼルとその戦後(その1)(本blog内記事)

USA-M124-103(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
Naval History and Heritage Commandより、1945年7月24日に艦載機の攻撃を受けるさばん丸。すでに浅瀬に乗り上げて船体は半ば海面下に没している。同船はそれまでの空爆でこの場所で被弾着底していたものの、一旦は浮揚に成功して修理中であった。

空襲下のさばん丸(出典:80-G-490152, Naval History and Heritage Command)
同じく、1948/01/12(昭23)撮影のUSA-M731-115。徳山湾の西、太華山の麓で擱座中の戦時標準船2TL型、玉栄丸。

USA-M731-115(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
この2隻に共通するのは、戦後浮揚されて再就役を果たしたこと。そして、新造時に搭載していた機関が艦本式ディーゼルだったことである。
元をたどると、横須賀での空母改装時に撤去されてしまった大鯨の主機関である複動2サイクル10気筒6,800BHP(定格)の艦本式ディーゼル11号10型を単動化し、三菱横浜で建造されたこの2TL型2隻にそれぞれ片舷1軸分2基がフルカンギヤごと搭載されたらしい。改造後の定格は1基当たり1,560~1,800と資料によってばらつきがある。
単動化してなお不調だったとされるこの11号とフルカンギヤ、復旧工事でさばん丸の主機は蒸気タービンに換装された(1949年)が、玉栄丸に新たに搭載されたのはなんと艦本式ディーゼル25号2型であった(1948年)。

玉栄丸(出典:Australian War Memorialより)
艦本式ディーゼル25号は、それまでの2号より製造と取扱いが容易で性能に優れた潜水艦主機として三菱神戸で設計・製造され、2型が1944年に試運転までこぎ着けたものの、戦局の悪化に伴い潜水艦には搭載されず、生産も中止されたものである。
戦局の都合で量産されなかった最新型。。。何か心を揺さぶられるものがある(ような気がする)。25号の詳細と写真については社史「新三菱神戸造船所五十年史」の他、本稿末尾掲載の「日本の艦艇・商船の内燃機関技術史」に掲載されている。
以後、日本水産所属となった玉栄丸は、計16次に渡る南氷洋捕鯨と漁閑期のペルシャ・アメリカからの原油輸送、後にミール工船に改装されてからは北洋での母船式漁業にも従事し、地球を十文字に駆け巡ることになる。
生産数1基の機関、控え目に言っても扱いづらかったと思うが。。。トラック島で引き揚げた第三図南丸を日本まで長駆2千海里曳航し、また南氷洋で事故により沈没した冷凍工船摂津丸の最後を見届けるなど、1975年(昭和50年)に解体されるまで、波乱万丈の生涯を送った戦標船であった。
なお、いつまで25号を搭載していたかは不明であるが、解体までに再度機関換装を行った記録は未見である。
CiNii 論文 - 日本の艦艇・商船の内燃機関技術史(第2次世界大戦終結まで) -艦艇用内燃機関編(その2)-
CiNii 論文 - 日本の艦艇・商船の内燃機関技術史(第2次世界大戦集結まで) -商船用内燃機関編(その6)-
艦本式ディーゼルとその戦後(その1)(本blog内記事)
国破れて-終戦後の呉軍港とその周辺
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより、1947/05/01(昭22)撮影のUSA-M312-2-175の一部を180度回転させたもの。場所は呉工廠で、中央の第三船渠にポンツーンが、右の造船船渠では何かが解体中。

USA-M312-2-175(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
左の第四船渠には標的艦摂津がいるが、右下の起重機船やその横の元駆逐艦か何かと思しきポンツーンなど色々目を引くものがある。第三船渠のポンツーンは昭和埠頭の辺りにあるものとセットらしく、またその海側には舵が放置されているが、これまでにここで解体された龍鳳や利根のものだろうか。
さて、同じく1947/05/05(昭22)撮影のUSA-M280-86。先の写真の4日後に撮影されたことになっているが。。。造船船渠がなにやらおかしいような気がする。第四船渠に摂津の姿もない。わずか4日でここまで様子が変化するだろうか。

USA-M280-86
では消えた摂津はどこにいるかというと、沖合いの泊地にいる。1947/05/05(昭22)撮影、USA-M280-15。先の第四船渠にいた写真と比べると、バーベットや司令塔がまだ残っているように見える。

USA-M280-15
どうもこの一連の撮影の日付、少なくともどちらか一方が間違っているのではないだろうか。M312が5月1日撮影、M280が5月5日撮影となっているが、撮影順序としてはおそらく逆で、M312よりM280が前かつ少なくとも1週間以上の開きがあるのではないかと思うのである。両方の写真の第三船渠で解体中なのは、いずれも航空母艦阿蘇(未成)なのではなかろうか。
ちなみに、少々見づらいが1947/03/18(昭22)撮影のUSA-M126-113(180度回転)だとこういう状況である。

USA-M126-113
そんなことを考えつつも、この辺りの写真は眺めているだけでも色々面白く、先の第三船渠の海側に転がっている舵がM312では1枚ずつなのにM280では2枚ずつになっているとか、M280の造船船渠の奥の方に蛟龍が埋もれてるとか。。。etc
-***-
1948/01/07(昭23)撮影のUSA-M2-6-117。あまり解像度は高くないけれど、第三船渠に入渠しているのは軽巡洋艦大淀。 第四船渠のTL型は機関室開放中のように見受けられるが、引き揚げられた2TL玉栄丸だろうか。記録に残っている日付の整合性に疑問はあるが。

USA-M2-6-117
1947/05/19(昭22)撮影のUSA-M307-48、江田島小用沖で着底した戦艦榛名。四番砲塔以外の上部構造物の解体はほぼ完了しているようだ。

USA-M307-48
同日撮影、USA-M310-10。榛名のやや北方で横転沈没した装甲巡洋艦出雲。隣に沈没している小型艇は飛行機救難艇だろうか。

USA-M310-10
1947/03/31(昭22)撮影のUSA-M220-6、呉市警固屋沖で着底した重巡洋艦青葉。こちらも上部構造物の解体は終了しているようだ。

USA-M220-6
1947/05/05(昭22)撮影のUSA-M280-83。呉工廠の昭和埠頭付近に係留中の、種別不明の小艦艇と4隻の輸送船。詳しくは分からないけど、左上の船は「青筒」こと"Blue Funnel Line”の船ではないだろうか。
左側のポンツーンは沈没したらしく、USA-M312-2-175の第三船渠にいるようだ。

USA-M280-83
1947/05/19(昭22)撮影のUSA-M308-2。呉工廠からちょっと北の方、今の呉卸売市場の沖合辺り。

USA-M308-2
左から乙型駆逐艦、甲型海防艦、二等輸送艦×2、峯風型以前の駆逐艦、甲型・丙型・丁型・丙型海防艦、丁型駆逐艦、二等・一等・二等輸送艦と思われる。丁型駆逐艦右手の二等輸送艦の甲板に、海龍と思しき物体が搭載されている。
そして、さらにその北、川原石駅前辺りの砂浜にどし上げた駆潜特務艇と繋げて、桟橋代わりに使われる丁型駆逐艦。発射管跡の黒い影は、盛られた石炭だろうか。同日撮影のUSA-M308-47。

USA-M308-47
-***-
以上、比較的鮮明なものを取り上げてみたが、さほど解像度は高くないものの他に有名どころでは着底中の戦艦伊勢、日向、大淀、利根、天城などが確認できるので、興味のある向きは探してみるのも一興かもしれない。

USA-M312-2-175(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
左の第四船渠には標的艦摂津がいるが、右下の起重機船やその横の元駆逐艦か何かと思しきポンツーンなど色々目を引くものがある。第三船渠のポンツーンは昭和埠頭の辺りにあるものとセットらしく、またその海側には舵が放置されているが、これまでにここで解体された龍鳳や利根のものだろうか。
さて、同じく1947/05/05(昭22)撮影のUSA-M280-86。先の写真の4日後に撮影されたことになっているが。。。造船船渠がなにやらおかしいような気がする。第四船渠に摂津の姿もない。わずか4日でここまで様子が変化するだろうか。

USA-M280-86
では消えた摂津はどこにいるかというと、沖合いの泊地にいる。1947/05/05(昭22)撮影、USA-M280-15。先の第四船渠にいた写真と比べると、バーベットや司令塔がまだ残っているように見える。

USA-M280-15
どうもこの一連の撮影の日付、少なくともどちらか一方が間違っているのではないだろうか。M312が5月1日撮影、M280が5月5日撮影となっているが、撮影順序としてはおそらく逆で、M312よりM280が前かつ少なくとも1週間以上の開きがあるのではないかと思うのである。両方の写真の第三船渠で解体中なのは、いずれも航空母艦阿蘇(未成)なのではなかろうか。
ちなみに、少々見づらいが1947/03/18(昭22)撮影のUSA-M126-113(180度回転)だとこういう状況である。

USA-M126-113
そんなことを考えつつも、この辺りの写真は眺めているだけでも色々面白く、先の第三船渠の海側に転がっている舵がM312では1枚ずつなのにM280では2枚ずつになっているとか、M280の造船船渠の奥の方に蛟龍が埋もれてるとか。。。etc
-***-
1948/01/07(昭23)撮影のUSA-M2-6-117。あまり解像度は高くないけれど、第三船渠に入渠しているのは軽巡洋艦大淀。 第四船渠のTL型は機関室開放中のように見受けられるが、引き揚げられた2TL玉栄丸だろうか。記録に残っている日付の整合性に疑問はあるが。

USA-M2-6-117
1947/05/19(昭22)撮影のUSA-M307-48、江田島小用沖で着底した戦艦榛名。四番砲塔以外の上部構造物の解体はほぼ完了しているようだ。

USA-M307-48
同日撮影、USA-M310-10。榛名のやや北方で横転沈没した装甲巡洋艦出雲。隣に沈没している小型艇は飛行機救難艇だろうか。

USA-M310-10
1947/03/31(昭22)撮影のUSA-M220-6、呉市警固屋沖で着底した重巡洋艦青葉。こちらも上部構造物の解体は終了しているようだ。

USA-M220-6
1947/05/05(昭22)撮影のUSA-M280-83。呉工廠の昭和埠頭付近に係留中の、種別不明の小艦艇と4隻の輸送船。詳しくは分からないけど、左上の船は「青筒」こと"Blue Funnel Line”の船ではないだろうか。
左側のポンツーンは沈没したらしく、USA-M312-2-175の第三船渠にいるようだ。

USA-M280-83
1947/05/19(昭22)撮影のUSA-M308-2。呉工廠からちょっと北の方、今の呉卸売市場の沖合辺り。

USA-M308-2
左から乙型駆逐艦、甲型海防艦、二等輸送艦×2、峯風型以前の駆逐艦、甲型・丙型・丁型・丙型海防艦、丁型駆逐艦、二等・一等・二等輸送艦と思われる。丁型駆逐艦右手の二等輸送艦の甲板に、海龍と思しき物体が搭載されている。
そして、さらにその北、川原石駅前辺りの砂浜にどし上げた駆潜特務艇と繋げて、桟橋代わりに使われる丁型駆逐艦。発射管跡の黒い影は、盛られた石炭だろうか。同日撮影のUSA-M308-47。

USA-M308-47
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以上、比較的鮮明なものを取り上げてみたが、さほど解像度は高くないものの他に有名どころでは着底中の戦艦伊勢、日向、大淀、利根、天城などが確認できるので、興味のある向きは探してみるのも一興かもしれない。
駆逐艦初霜最期の地
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、1948/09/02(昭23)撮影のUSA-M86-1-26の一部。京都府宮津湾、天橋立の対岸で擱座した駆逐艦初霜。

USA-M86-1-26(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
2016年1月9日、現地を訪れてみた。

初霜擱座地点付近より、宮津湾を望む(2016年1月9日筆者撮影)

当時はこんな風に見えていたのかもしれない。


USA-M86-1-26(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
2016年1月9日、現地を訪れてみた。

初霜擱座地点付近より、宮津湾を望む(2016年1月9日筆者撮影)

当時はこんな風に見えていたのかもしれない。

最後の重構桁道路橋
戦後日本国内で用いられた重構桁(JKT)のうち、最も有名なものは大夕張地区に残存するいくつかの森林鉄道の鉄道橋及び林道の道路橋であろう。いくつかはまだアクセス可能な位置にあり、残りは状況によっては遠望することができるものと思われる。

下夕張森林鉄道夕張岳線第六号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)
これら以外に重構桁が用いられた記録としては、国鉄で災害によって橋梁が流出した際に仮設橋梁として使用された例があるが、復旧に伴い撤去されて現存しない。応急橋・架設桁用として国鉄三島操機区に保管されていた重構桁は、昭和45年に廃棄処分になっているようだ。
他に戦後しばらくの間、大阪で歩道橋として使用されていたこともあるが、やはり現存しない。
一方、重構桁を改造・転用し、道路橋として用いられた例がいくつか記録に残っている。
1)深沢橋(栃木県) 不詳 鋼重49t 1947年(昭和22年)完成
2)渚橋(岐阜県)支間35m 58t 1948年完成
3)岩井谷橋(宮崎県)支間32m幅員5.5m 4列2段 53t 1948年完成
4)越野尾橋(宮崎県)橋長20m幅員4.5m 5列1段 26t 1948年完成
5)落合橋(滋賀県)3列1段 14t 1949年完成
6)広河原橋(宮崎県)不詳 16t 1949年完成
(以上出典:曽川正之追想録 (1982年),横河橋梁製作所『横河橋梁八十年史』(1987年))
いずれの橋も現存しないとされているが、2)の渚橋が1985年末(昭和60年)まで残存した最後の重構桁道路橋であったようだ。写真も残されており、架橋されていた位置はJR渚駅近く、高山本線が飛騨川を渡る付近である。
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、1948/03/30(昭23)撮影のUSA-R1216-79の一部。未舗装であるからか白く見える道路を渡している、中央の橋が渚橋であろう。

USA-R1216-79(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
同じく1977/10/20(昭52)のCCB7711-C1B-31より、国道の付け替え後の姿。晩年は人道橋として用いられたという。

CCB7711-C1B-31(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
道路橋として用いられた重構桁のうち、最大級であろう本橋の往時の姿を伝える資料もある。

(上段:曽川正之追想録 (1982年),下段:横河橋梁製作所『横河橋梁八十年史』(1987年))
高山本線の脇にある旧渚橋の橋台跡。谷はそれなりに深さがあり、現存していれば中々見ごたえのある重構桁道路橋であったことだろう。

旧渚橋橋台,左手は高山本線(2016年1月11日筆者撮影)
旧国道は一段高い位置に建設された新道への土盛りで路盤が埋め立てられ、接続を失っている。わずかに人の歩ける程度の幅の小径が残っているが、草木に埋もれて通行は難しい。

右岸旧国道41号(2016年1月11日筆者撮影)
護岸の上のガードレールが新国道、石垣の途中に白く積雪しているところが旧国道の路盤の位置
国道41号線を渡していた渚橋であるが、下流にある新渚橋が昭和42年8月完成であることから、その頃対岸を通る新道に切り替えられた後、昭和61年まで(少なくとも名目上は)人道橋として残存したようだ。旧国道は現在でも確認出来るものの、路盤の植生が使われなくなってからの年月を想起させる。

左岸旧国道41号(2016年1月11日筆者撮影)
積雪している2つの平面のうち上側がJR高山本線、下が旧国道41号線の路盤。左手奥が旧渚橋架橋位置

下夕張森林鉄道夕張岳線第六号橋梁(2009年8月14日筆者撮影)
これら以外に重構桁が用いられた記録としては、国鉄で災害によって橋梁が流出した際に仮設橋梁として使用された例があるが、復旧に伴い撤去されて現存しない。応急橋・架設桁用として国鉄三島操機区に保管されていた重構桁は、昭和45年に廃棄処分になっているようだ。
他に戦後しばらくの間、大阪で歩道橋として使用されていたこともあるが、やはり現存しない。
一方、重構桁を改造・転用し、道路橋として用いられた例がいくつか記録に残っている。
1)深沢橋(栃木県) 不詳 鋼重49t 1947年(昭和22年)完成
2)渚橋(岐阜県)支間35m 58t 1948年完成
3)岩井谷橋(宮崎県)支間32m幅員5.5m 4列2段 53t 1948年完成
4)越野尾橋(宮崎県)橋長20m幅員4.5m 5列1段 26t 1948年完成
5)落合橋(滋賀県)3列1段 14t 1949年完成
6)広河原橋(宮崎県)不詳 16t 1949年完成
(以上出典:曽川正之追想録 (1982年),横河橋梁製作所『横河橋梁八十年史』(1987年))
いずれの橋も現存しないとされているが、2)の渚橋が1985年末(昭和60年)まで残存した最後の重構桁道路橋であったようだ。写真も残されており、架橋されていた位置はJR渚駅近く、高山本線が飛騨川を渡る付近である。
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、1948/03/30(昭23)撮影のUSA-R1216-79の一部。未舗装であるからか白く見える道路を渡している、中央の橋が渚橋であろう。

USA-R1216-79(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
同じく1977/10/20(昭52)のCCB7711-C1B-31より、国道の付け替え後の姿。晩年は人道橋として用いられたという。

CCB7711-C1B-31(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
道路橋として用いられた重構桁のうち、最大級であろう本橋の往時の姿を伝える資料もある。

(上段:曽川正之追想録 (1982年),下段:横河橋梁製作所『横河橋梁八十年史』(1987年))
高山本線の脇にある旧渚橋の橋台跡。谷はそれなりに深さがあり、現存していれば中々見ごたえのある重構桁道路橋であったことだろう。

旧渚橋橋台,左手は高山本線(2016年1月11日筆者撮影)
旧国道は一段高い位置に建設された新道への土盛りで路盤が埋め立てられ、接続を失っている。わずかに人の歩ける程度の幅の小径が残っているが、草木に埋もれて通行は難しい。

右岸旧国道41号(2016年1月11日筆者撮影)
護岸の上のガードレールが新国道、石垣の途中に白く積雪しているところが旧国道の路盤の位置
国道41号線を渡していた渚橋であるが、下流にある新渚橋が昭和42年8月完成であることから、その頃対岸を通る新道に切り替えられた後、昭和61年まで(少なくとも名目上は)人道橋として残存したようだ。旧国道は現在でも確認出来るものの、路盤の植生が使われなくなってからの年月を想起させる。

左岸旧国道41号(2016年1月11日筆者撮影)
積雪している2つの平面のうち上側がJR高山本線、下が旧国道41号線の路盤。左手奥が旧渚橋架橋位置