南氷洋捕鯨鯨肉利用事始―(戦時)標準船南氷洋を行く(英国編)
第一次世界大戦時、ドイツのUボートによる船舶被害に対処するため、イギリスは標準船("Standard Built Ship")の建造を行った。計画への着手が遅れたため、戦争終結前に完成したものは少なく、したがって大戦中の損失もわずかであった。
とはいえ、戦争が終わっても、一度造り始めてしまったものはそう簡単には止められない。戦後大量に竣工した標準船は、世界中に散って戦間期の海運を担い――次の大戦において、両大洋で大量の損失を蒙っている。
この標準船のうちのG1型―8,000総トンの一般貨物船―の1隻に、"Narenta"(ナレンタ)という船があった。戦後に完成し、英国船主の下、主にカナダやオーストラリアからイギリスに生鮮肉をチルド輸送していたらしく、冷凍能力を付与されていた。

Narenta(出典:City of Vancouver Archives)
1939年(昭和14年)、ナレンタは日本に売船され、大阪鉄工所桜島工場で改装工事が行われた。新たな名は厚生丸、船主の名は日本水産である。

厚生丸(出典:日本水産百年史より)
改装により増強された1日当たり80トン(のち130トン,単位はおそらく冷凍トン)の冷凍能力と、鯨肉5,000トン分の冷凍倉を持った厚生丸は、同年第二図南丸船団の付属冷凍工船として、南氷洋に向けて出航した。これが日本の南氷洋における、初の本格的な鯨肉生産の始まりであった。
戦前日本の南氷洋捕鯨においては、沿岸捕鯨との競合を避けるため、許可されたもの以外は鯨肉の国内持込みが禁止されており、本格的に解禁されたのはこの年からである。それまで、採油効率の悪い赤肉などはそのほとんどが海洋投棄されていた。
当時の鯨油と食料の生産量をグラフにするとこうなる。1939/40年漁期に食料の生産量が前年比3倍増になっているのは、厚生丸の能力によるところが大きい。

1940/41年と捕獲頭数(BWU換算)がほぼ等しい戦後の1960/61年の生産量も入れてみたが、この差額が投棄量と見てよいだろう。なお、1940/41年に食料の生産量が前年度比でさらに1.5倍になっている原因は調査中である。第三図南丸船団が厚生丸もう1隻分くらい生産増えてるんだが、なんだこれ。
1940/41年を最後に、日本の戦前南氷洋捕鯨は幕を閉じる。厚生丸は海軍に徴用され、主に南方への生鮮品の輸送に従事していたが、昭和18年4月7日にトラック島沖で被雷する(Tunny, SS-282)。軽巡長良が曳航を試みたが翌々日に沈没、"Standard Built Ship"の長い喪失リストに加わった。
-***-
一方で、欧米の捕鯨船団が鯨肉を一切利用していなかったかというと、必ずしもそういう訳でもない。1937年建造のドイツの捕鯨母船"Walter Rau"(ヴァルター・ラウ,独遠洋捕鯨の功労者の名)は、船内に肉粉、缶詰、冷凍の各工場を設けていた。

Walter Rau(出典:The History of Modern Whaling)
ヴァルター・ラウ率いる8隻の捕鯨船からなる船団は、1937/8年漁期に18,246tの鯨油の他に、1,024tの肉粉、104tの缶詰鯨肉、114tの冷凍鯨肉などを生産している。南氷洋産鯨肉の本格的な利用は、欧州船団が一歩先んじていたということになる。
もっとも、戦前のドイツ捕鯨船団は、油脂メジャーと各国政府の思惑と利権をポテトマッシャーで潰して出来た産物で、その結果が遠洋捕鯨の実績がないドイツが南氷洋に出漁できた理由であり、また戦後ドイツが出漁できなかった理由でもあるので、他国の船団と同一視するのは問題かもしれない。
とはいえ、戦争が終わっても、一度造り始めてしまったものはそう簡単には止められない。戦後大量に竣工した標準船は、世界中に散って戦間期の海運を担い――次の大戦において、両大洋で大量の損失を蒙っている。
この標準船のうちのG1型―8,000総トンの一般貨物船―の1隻に、"Narenta"(ナレンタ)という船があった。戦後に完成し、英国船主の下、主にカナダやオーストラリアからイギリスに生鮮肉をチルド輸送していたらしく、冷凍能力を付与されていた。

Narenta(出典:City of Vancouver Archives)
1939年(昭和14年)、ナレンタは日本に売船され、大阪鉄工所桜島工場で改装工事が行われた。新たな名は厚生丸、船主の名は日本水産である。

厚生丸(出典:日本水産百年史より)
改装により増強された1日当たり80トン(のち130トン,単位はおそらく冷凍トン)の冷凍能力と、鯨肉5,000トン分の冷凍倉を持った厚生丸は、同年第二図南丸船団の付属冷凍工船として、南氷洋に向けて出航した。これが日本の南氷洋における、初の本格的な鯨肉生産の始まりであった。
戦前日本の南氷洋捕鯨においては、沿岸捕鯨との競合を避けるため、許可されたもの以外は鯨肉の国内持込みが禁止されており、本格的に解禁されたのはこの年からである。それまで、採油効率の悪い赤肉などはそのほとんどが海洋投棄されていた。
当時の鯨油と食料の生産量をグラフにするとこうなる。1939/40年漁期に食料の生産量が前年比3倍増になっているのは、厚生丸の能力によるところが大きい。

1940/41年と捕獲頭数(BWU換算)がほぼ等しい戦後の1960/61年の生産量も入れてみたが、この差額が投棄量と見てよいだろう。なお、1940/41年に食料の生産量が前年度比でさらに1.5倍になっている原因は調査中である。第三図南丸船団が厚生丸もう1隻分くらい生産増えてるんだが、なんだこれ。
1940/41年を最後に、日本の戦前南氷洋捕鯨は幕を閉じる。厚生丸は海軍に徴用され、主に南方への生鮮品の輸送に従事していたが、昭和18年4月7日にトラック島沖で被雷する(Tunny, SS-282)。軽巡長良が曳航を試みたが翌々日に沈没、"Standard Built Ship"の長い喪失リストに加わった。
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一方で、欧米の捕鯨船団が鯨肉を一切利用していなかったかというと、必ずしもそういう訳でもない。1937年建造のドイツの捕鯨母船"Walter Rau"(ヴァルター・ラウ,独遠洋捕鯨の功労者の名)は、船内に肉粉、缶詰、冷凍の各工場を設けていた。

Walter Rau(出典:The History of Modern Whaling)
ヴァルター・ラウ率いる8隻の捕鯨船からなる船団は、1937/8年漁期に18,246tの鯨油の他に、1,024tの肉粉、104tの缶詰鯨肉、114tの冷凍鯨肉などを生産している。南氷洋産鯨肉の本格的な利用は、欧州船団が一歩先んじていたということになる。
もっとも、戦前のドイツ捕鯨船団は、油脂メジャーと各国政府の思惑と利権をポテトマッシャーで潰して出来た産物で、その結果が遠洋捕鯨の実績がないドイツが南氷洋に出漁できた理由であり、また戦後ドイツが出漁できなかった理由でもあるので、他国の船団と同一視するのは問題かもしれない。
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