呉のLADY SHIRLEY

 Australian War Memorialより、旧海軍の飛行機救難船。奥に旧呉海軍工廠の200tクレーンが見えることから場所は呉、"LADY SHIRLEY"の名でイギリス連邦占領軍が交通船として使用していた、200トン型の公称1091号だろう。のち海上保安庁巡視船むらちどり。

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"LADY SHIRLEY"(旧海軍200トン型飛行機救難船1091号,Australian War Memorialより)

日本本土のセンチュリオン戦車

 Australian War Memorialより、国鉄の操重車(ソ31,広島駅常備)でセンチュリオン戦車を吊り上げ中。当時、中国・四国地方に駐留していたイギリス連邦占領軍が装備していたもの。ソ30形の吊り上げ能力は最大65t、センチュリオンは50t余の筈である。

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ソ31で吊り上げ中のセンチュリオン戦車(Australian War Memorialより)

148315,Australian War Memorialより
同上(Australian War Memorialより)

 1953年1月20日、場所は"Hiro"とあるので、広海軍工廠のあった広島県呉市の広だろう。シキ100に積んで"Haramura"に運ぶらしいが、広島の原村演習場であろうか。
 シキ100形は80tまで搭載可能だが、車両限界は大丈夫だったのだろうか。見たところ貨車からはさほどはみ出していないようだが、センチュリオンの全幅は3.4mほどある筈で、若干超過するように思う。

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シキ100に搭載されたセンチュリオン戦車(Australian War Memorialより)

戦時標準船2A型の積載量について

 戦時標準船2A型は6,600総トン(計画値)である。この総トン数(Gross Tonnage)は船の容積を示すもので、実際に積める貨物の重さではない。それを示すのは載貨重量トン数(Dead Weight Tonnage)である。

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 ではそれがいくらかというと、11,200載貨重量トンである。戦時造船史にはこれらの数字と並んで、平時満載貨物として10,114トンとの数字がある。1割の戦時増載込みということであろうか。

 1945年(昭和20年)7月の伏木港(富山県)の入港船。戦後にGHQに提出したもののようだ。「7/16 DAIIKU 12,090」「7/18 EHIKO 11,899」がそれぞれ石炭1万トン強を搭載して入港したことになっている。
Port of Fushiki: Daily record of entry and clearance of ships

国立国会図書館デジタルコレクション - Port of Fushiki: Daily record of entry and clearance of ships, port of Fushiki(Japanese). : Report No. 54a(1)(a), USSBS Index Section 2 (コマ番号59/97より)

 前者は大郁丸(大阪商船)、後者は英彦丸(日本郵船)で、いずれも戦時標準船2A型である。表の項目の総トン(GT)は、斜線で消されて載貨重量トン(DT)に訂正されている。2A型も満載で運航されていたのだな、と少し安心する。 

戦時標準船2A型の戦後

 戦時標準船2A型、と言われてぱっと船容が思い浮かべられる人は少数だろう。何しろ残っている写真が少ない。2年ちょっとの間で120隻余も建造された筈なのに、日本で撮影された公試時の写真などの他にはこういうものがあるばかりである。
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 国破れて山河あり、日の丸商船隊失われて戦標船ばかり残り、という訳でもないが、残存したり引揚げられたりで50隻ほどの2A型が戦後再び就航している。海運界の復興に伴いやがて海外航路にも進出するが、入港先としてもあんまり危ない船に入ってきてもらうのはお断り、となるので、国際的に認められた船舶の安全規格に沿うよう改造工事をした上で日本から出すことになる。戦後盛んに実施された、戦時標準船の国際船級への入級工事がそれである。

 敗戦により、戦前日本が持っていた国際船級であるNK船級の効力も海の藻屑となったので、戦後就航した2A型のうちおよそ2/3はアメリカのAB船級を取得した。この入級工事に際して三島型に改装されてしまったので、昔日の2A型の面影はない。船首と船尾周りにかすかにそれと思しき雰囲気が残っている。
CVA 447-8482 - S.S. Tamon Maru No. 16 [at dock]
S.S. Tamon Maru No. 16 [at dock] - City of Vancouver Archives

 さて、この第十六多聞丸の5年ほど前の姿を見てみよう。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、1947/11/06(昭22)撮影のUSA-M631-58の一部、石川県七尾南湾の湾口付近。
石川県七尾南湾の湾口付近(1947/11/06(昭22)撮影)
(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス



 真っ二つになりかけていたのを二つに切り離し、舞鶴まで曳航して繋ぎなおした記録が残っている。

no16tamon01.jpg
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CiNii 論文 - 第十六多聞丸結合工事


 いつも空船状態の2A型しか見ていないので、船脚を深く沈めた姿に違和感を覚えたり、乾舷の低さにちょっと不安になったりもする。これで北太平洋横断するんだよな?(撮影地:バンクーバー)
S.S. Enkei Maru E.O. 26 [at dock]
S.S. Enkei Maru E.O. 26 [at dock] - City of Vancouver Archives

 先入観がある故になかなか信じて貰えないこともままあるが、あまり有名でない戦標船ならそんなこともないだろう。改装された戦時標準船2A型、輝山丸。売船に伴って泉丸と改名後の姿。
CVA 447-5242 - M.S. Izumi Maru
M.S. Izumi Maru - City of Vancouver Archives

 ただでさえ船尾トリムが問題になった2A型を船尾船橋にして、操船に問題は生じなかったのだろうか。

 このAB船級入級工事、政府が希望する船主に斡旋したらしく設計はほぼ同じらしいが、改装工事は複数の造船所で行っているので艤装に多少の差異がある。予備浮力が心配になるが、これほど荷を積んだ戦争中の写真は見たことがない。
CVA 447-8465.2 - S.S. Taikyu Maru
S.S. Taikyu Maru - City of Vancouver Archives

 なお、少なくとも一部の船は改装に当たってトランサムスターンを改めているが、理由はよく分からない。船尾の甲板面積の拡大と予備浮力の増大くらいしか思い当たらないが、案外「見た目」だろうか。 
CVA 447-7055.2 - S.S. Mukahi Maru [at dock]
S.S. Mukahi Maru [at dock] - City of Vancouver Archives

 戦時標準船2A型、とこの写真を示されて違和感を抱くのは見慣れている人だけかもしれない。よく見るとデリックのブームはトラス構造の省材型だし、キングポストは角断面で戦時中の建造に違いない。
CVA 447-5589 - S.S. Kyoshin Maru
S.S. Kyoshin Maru - City of Vancouver Archives

 実はこの船、戦争末期に播磨造船所で起工され、戦時中に1隻しか完成しなかったちょっとレアな3TA型の1隻戸畑丸で、売船されて共進丸と改名後の姿。3TAは2A型を基本に機関出力を向上させた油槽船として戦争末期に計画されたが、南方航路の途絶により貨物船に改装されたもの。

 改装されているものの、こちらが本来の2A型。遠州丸が売船された後の姿。

ShipSpotting.com
© dedge


 この写真、戦標船関係の某洋書の表紙に使われているもののようだ。

戦時中の造船所

 写真週報229号表紙(昭和17年7月20日発行)より、本文には「7月1日撮影」とあり、防諜の為「○○造船所」としか書かれていないが、背景に写っているのは雲仙丸(3,140t,日本郵船)だろう。ということは三菱横浜造船所である。
写真週報229号表紙
表紙(写真週報229号)

 「戦時標準船建造は進む」というキャプションを信じるなら、この頃三菱横浜で建造中なのは逓信省標準船(平時標準船)TM型なので、おそらく日南丸か日輪丸のどちらかだろう。先の雲仙丸(汐入船渠,第四~五号岸壁)の位置からして、一番南側の第五号船台だろうか。

写真週報229号本文01
本文6P(写真週報229号)

写真週報229号本文02
本文7P(写真週報229号)

特2TL型山汐丸の戦後

 Naval History and Heritage Commandより、1945年9月撮影の特2TL型山汐丸。同年2月17日、第58任務部隊艦上機による空襲で被爆着底したようだ。
SC 211765 YAMASHIO MARU (Japanese Aircraft Carrier, 1944) scuttled in Tokyo Bay in September 1945
着底した山汐丸(Naval History and Heritage Commandより)

 沈没場所は横浜港内とあるので探してみたところ、どうやら現在の瑞穂埠頭であるらしい。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより、1946/03/09(昭21)撮影のUSA-M-68-A-6-1-3の一部を拡大したもの。
横浜港瑞穂埠頭(1946/03/09(昭21)撮影)
(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 背後の防波堤の見え方からしてこの写真の中央やや下あたりにいた筈だが、米軍が埠頭を使用するに当たって邪魔だったのか、早々に浮揚されたらしくすでに姿は見えない。

 ではどこにいるんだ、というと、ここにいる。同日撮影USA-M-68-A-6-1-29、今の山下埠頭と横浜ベイブリッジの間あたりだろうか。
横浜港内山下埠頭沖(1946/03/09(昭21)撮影)
(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 ここで駆逐艦らしきものを挟んで右が、後に八戸港の沈船防波堤になる2TL富島丸/大杉丸/東城丸のいずれかと思われる。すぐ左が撮影日の3日前に漂流衝突して沈没した標的艦大指(未成)。その左の商船2隻は分からない。
山汐丸と標的艦大指
浮揚後、横浜港内で係留中の山汐丸(出典:山汐丸,Wikipediaより)

 さて、浮揚後も係留されていた山汐丸であるが、当時全国各地で艦艇の解体が進められていた。GHQの指令の下、運輸省が最寄の造船所に浮揚・解体を命じ、スクラップは無償で払い下げるが解体費用は出さないというものだったらしい。命令を受けた三菱横浜造船所、割が悪いので浮揚後しばらく放置。

 そんなある日の朝、山汐丸の船首がぽっきり折れて再び沈没してしまった。場所はここ(青矢印)、右側が船首であるが、間の悪いことに5つある船台のうちの2つを完全に塞いでしまっている。1947/07/24(昭22)撮影のUSA-M378-120より。
三菱横浜造船所(1947/07/24(昭22)撮影)
(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

 あまり関係ないが、この写真の中央上部には一等輸送艦が停泊中である。時期的に小笠原捕鯨に従事していたものであろうか、デッキハウスがあるように見受けられるので、一等輸送艦第9、13、16、19号のいずれの可能性もあると思われる。また、中央やや右で停泊中の船にはバウスプリットがあるように見え、あるいは帆船日本丸/海王丸かもしれない。
 なお、現在この付近一帯はみなとみらい地区となっており、このやや南が現在帆船日本丸が保存されている場所になる。戦後70年を経て、周囲の変遷には目を見張るばかりである。

 閑話休題、ただでさえ儲けが出ないのに、再浮揚となれば赤字は免れない。所長の鶴の一声で、塞がれた第一号第二号船台は地上組立場とし、第三号船台に干渉する船首部分は解体することに決したが、運輸省は航空母艦を岸壁にするのはもってのほか、やりたければ自力でGHQの許可を取ってこいとのこと。
 これは普通のタンカーを改装したものである、などと色々説明したものの取り付くしまもない。結局、あらゆる角度から山ほど写真を撮って提出し、ようやく許可を取ったという。

 こうして7号岸壁こと通称「山汐桟橋(岸壁)」は、昭和30年前後に埋め立てられるまでその姿を残していたようだ。1956/03/10(昭31)撮影のUSA-M324-233より。
三菱横浜造船所(1956/03/10(昭31)撮影)
(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

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 ちょっと遡って山汐丸建造中の話。完成も近づき、艤装岸壁に繋がれて運転のため汽缶を点火しようとしたところ、風が吹くと煙突から吹き込む風に缶の送風機が負けてしまいどうしても点火できない。

 仕方がないので、岸壁のクレーンで鉄板を煙突の前に吊って火をつけたという。風向きにもよるのであろうが、横向きの煙突も中々難しいということだろうか。同じ特TLのしまね丸の図面を見ると、同様に真横に出してはいるが途中から上に角度をつけており、開口部は上向きになっている。
山汐丸一般配置図
山汐丸一般配置図(出典:戦時造船史(小野塚一郎著,S63今日の話題社))

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 なお、山汐丸が再びの沈没を遂げた頃の横浜港内には、後に八戸港の沈船防波堤になる2TLの富島丸/大杉丸/東城丸のうち2隻と思われる船が係留されている。1947/07/24(昭22)撮影のUSA-M378-127より、時期的にはちょうど沈船防波堤への改装工事中であろうか。残るもう1隻の2TLは、これと同日撮影である先のUSA-M378-120で三菱横浜の岸壁にいる。
横浜港瑞穂埠頭沖(1947/07/24(昭22)撮影)
(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

八戸港の沈船防波堤―戦時標準船2TL型の戦後(本blog内記事)

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 戦時中陸軍が撮影したものか、1944/10/14(昭19)撮影の897-C8-107より。2TL玉栄丸がこの日竣工だが、第一号船渠右手桟橋に接岸中の船がそうであろうか。船台上にある2隻のうち、上側第四号船台ののっぺりした方は建造中の山汐丸ではないかと思っている。

三菱横浜造船所(1944/10/14(昭19)撮影)

キスカ島残照

Fold3 Image - 46944949

 fold3.comより、砂浜に埋没する大発。状況から見てキスカ島、後ろで擱座している貨物船は野島丸(日本郵船,7,190t)だろう。

Fold3 Image - 46915528

 同じくキスカ島で爆撃を受ける貨物船。倉口の配置からしてぼるねお丸(大阪商船,5,863t)だろう。こちらもすでに擱座後のように見受けられる。

Fold3 Image - 46915408

 爆撃を受けるキスカ湾。上の方にいる輸送船は浦塩丸(川崎汽船,3,110t)だろう。野島丸が座礁後であれば、爆弾が着弾している付近ではないかと思う。
 有名な特殊潜航艇の基地は、先の写真下の方、桟橋と思しき細長い構造物のやや下に見える溝状の場所ではなかろうか。

 なお、ぼるねお丸はgooglemapでもその残骸が確認できる。



 野島丸と浦塩丸は、残念ながらgooglemapでは解像度の低い場所にかかっており確認できないが、現地で撮影された写真が登録されている。

野島丸 / 浦塩丸 -Google Maps

陸軍特殊船あきつ丸(改装前)

 fold3.comより、撮影日時不明、ニューブリテン島のどこかで撮影されたもの。キャプションに記載はないが陸軍特殊船あきつ丸の改装前の姿で、飛行甲板前縁が改装後より前に出てるように見える。

 ラバウル第1回目入港時(1942年12月1日)に撮影された、とされているのがこれだろうか。

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ヘッセルマンエンジン―陸軍三式潜航輸送艇と木製大護衛艇(その2)

 さて、「陸軍潜水艦」(土井全二郎,2010年光人社NF文庫)にヘッセルマンを積んだら海軍技術陣に褒められた、的な記述がある。しかし、これは当時の日本の置かれた状況を鑑みて、やむを得なければ即ち仕方がない、といったところで、やはりこれを積んだフネ作るのはダメな方向ではないかと思う。

 先の木製大護衛艇には、350馬力ディーゼル2基搭載の甲と、160馬力ヘッセルマン2基搭載の乙がある。機関重量の計は甲3.7tに対して乙5.4tと重く、最大出力時の回転数は900rpmと1,000rpmで概ね同等。ヘッセルマンの馬力当たり重量が軽い、というのはどうやら「陸軍兵器総覧」(日本兵器工業会編,1977年図書出版)に記述されている谷口少佐の言が出典であろうと思われるが、何と比べてのものだろうか。

 確かにヘッセルマンエンジンの特徴の一つとして、ディーゼルほど高圧縮比ではないので強度が必要なく、軽く作れるといえばそのとおりである。
 また低速ディーゼルは重いのも事実で、海軍の駆潜特務艇に搭載された中型400馬力ディーゼルは本体だけで9.5tあるが、こちらの最大出力時の回転数は500rpmで発生トルクが倍以上違う。付け加えるなら、木製大護衛艇は当初戦標船2EのF5ディーゼル550馬力の計画だったが、これは29t近くあって重過ぎるとして後に取り止めている。

 燃料消費率を見ても350馬力ディーゼルが190g/馬力/時、ヘッセルマンが240g/馬力/時と効率も劣る。もっとも、こちらは気筒の大きさの違いもあるだろうが。

基本計画(1)
基本計画(1)(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020287200より)

 この木製大護衛艇の基本計画を見るに、「2」の350馬力ディーゼルはまるゆ2型の主機に2基2軸として採用予定のものと同じものらしい。まるゆ1型の2基タンデム1軸に比べて堅実な設計で、やはりヘッセルマンは使いたくて使ったものではないのだろう。

 なお木製大護衛艇であるが、当初15ノットを発揮するために「1」のF5ディーゼルをこの第一次計画で選定したものの、先のとおり不経済であるとしてこの後の二次計画でまるゆ用として研究中の「4」の500馬力ディーゼル1基とし、最終計画で主機が「4」のディーゼルと「5」のヘッセルマンの二本立てとなり、最後に「4」のディーゼルはどうやら都合がつかずに「2」の350馬力2基となったらしい。

 ついでにこの「2」の350馬力ディーゼルは、元をたどると陸軍の装甲艇(AB艇,文中一見『AD艇』だがよく見るとABと書いてある)に搭載されたもので、新潟鐵工所では機関形式T6YA/T6YB(シリンダ径235mm×行程270mm)として生産されている。これに過給器をつけて525馬力としたT6YBSが存在し、これが「3」かあるいは「4」の500馬力ディーゼルを指すのかもしれない。

5式木製大護衛艇(甲)取扱法(案)/附表
5式木製大護衛艇(甲)取扱法(案)/附表(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020288600より)

ヘッセルマンエンジン―陸軍三式潜航輸送艇と木製大護衛艇(その1)

 かつて、ヘッセルマンエンジンという内燃機関が用いられていた時代があった。スウェーデンのヨナス・ヘッセルマンの発明によるもので、1930年代に自動車用のほか、油田掘削用の動力としても用いられた。三式潜航輸送艇こと「まるゆ」の主機関としても、一部方面で有名であるかもしれない。
 ヘッセルマンエンジンは、ガソリン機関とディーゼル機関を足して二で割ったような性格の機関で、利点としては低質油やガスを燃料とできること、欠点としては点火装置と噴射装置の両者が必要なことが挙げられる。

 まるゆの方面から調べていくと、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13120848500、軍管区別兵器 製造設備能力分布状況表 昭和20.5(防衛省防衛研究所)の「舟艇の部」に、まるゆ(ヘッセルマン)発動機月産32台との記載がある。

軍管区別兵器 製造設備能力分布状況表 昭和20.5
舟艇の部,軍管区別兵器 製造設備能力分布状況表 昭和20.5(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13120848500より)

 相模陸軍造兵廠15基/月の他、発動機製造(ダイハツ)、大阪金属工業(ダイキン)などの名前があるが、久保田鉄工所(クボタ)が0になっているのは3月の大阪空襲の影響だろうか。

 ダイハツでは、昭和17年春に帝国石油から油田開発用機械の原動機として、ヘッセルマンエンジンを受注したとの記録がある。形式は6EKH、シリンダ径178mm×行程178mm、毎分回転数1,150で200馬力、重量は2,800kgと記されている。
 また、ダイハツにはこのようなものも残っているようだ。

 200馬力ヘッセルマン機関取扱説明書 6EKH-A(産業技術資料データベースより)

 一方、このリストにはないが、新潟鐵工所が陸軍向けに南方油田さく井用として「統一型ヘッセルマン式H6SB形」160馬力(200馬力の記述もあり)を製作したとの記録がある。H6SBの要目を見ると、4サイクル6気筒でシリンダ径178mm×行程178mm、毎分回転数1,000となっている。
 さく井用としては、噴出する天然ガスを燃料に利用できるヘッセルマンの利点が生かせたのだろう。なお、海軍向けのさく井機には115馬力ディーゼルを用いたらしい。

 これらはまるゆ用のヘッセルマンを2基積んだ陸軍の「五式木製大護衛艇(乙)」の主機要目と出力以外は同じで、同一のエンジンと見てよいだろう。

5式木製大護衛艇(乙)取扱法(案)/附表
5式木製大護衛艇(乙)取扱法(案)/附表(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020289300より)

 なお、これら陸軍ヘッセルマンエンジンの原型はアメリカのワーケシャ"Waukesha"社が開発したもので、後にGEに買収されてガスエンジンのブランドとして今に残っている。

 ワーケシャ・ガスエンジン

 また、大護衛艇に積まれたヘッセルマンエンジンの写真が残っている。後に海軍でもヘッセルマンを航空基地の発電用に使用したようだ。

5式木製大護衛艇(乙)取扱法(案)/附図
5式木製大護衛艇(乙)取扱法(案)/附図(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020289400より)

木製大護衛艇2型 写真集
木製大護衛艇2型 写真集(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020289800より)
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天翔

Author:天翔

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ほとんどチェックしていないので、コメント等への反応は保証できません。。。まあもしそんなものがあれば、の話ですが。

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